蛸畑遺跡〔7〕

蛸畑遺跡の「物語」は、少なくとも次の三項から成り立っている。

  • 近世の文献に記述があること。
  • 貝が出土すること。
  • 吉田富夫が関与すること。

この構造は、蛸畑遺跡が最初ではなかった。吉田が沢観音堂貝塚址(1)として紹介したものをはじめ、類例はいくつかあるが、西志賀貝塚と御塚を以下に見よう。

西志賀遺跡については、綿神社の西方に「貝塚」と呼ぶ場所のあることが『尾張名所図会』後編に記されていて、そのことを吉田が紹介している(2)。この報告以降に西志賀貝塚の前期弥生土器研究で、吉田が考古学界の第一線に登場していったことにあきらかなように、西志賀貝塚は吉田にとって記念すべき遺跡であった。紅村弘が書いた「この名所図会に記載あることは、吉田氏の父君が見出されたものという(3)」ことも考慮すると、吉田には格別の意味を持つ遺跡であったに違いない。

御塚は、『金鱗九十九之塵』巻九十に記述があること、貝が出ること、そして吉田富夫が熱心に調べていた。これに関連して、「昭和三十九年夏、沢上中学南西隅にプールを設けたとき、大量の貝殻が出たことを、同校卒業生で桜台高校生であった岡本俊朗君(今は岡山大学で考古学専攻の学生)から聞き、もしまた将来何か工事が行なわれるようだったら知らせてほしいと頼んでおいたところ、昭和四十一年七月体育館等増設工事のこと聞き、早速六日に実査した」が、江戸時代の貝塚だったため、「私はひそかに縄文の、それも古い時期のものを期待していたのに―(4)」と、落胆を隠さない吉田であった。

このように見来たるときに、蛸畑遺跡は、吉田富夫が見た最後の夢だったと言える。その最初は、言うまでもなく、正夢として始まった西志賀貝塚であった。

そして、吉田の夢をなぞる生徒たちがいた。御塚に岡本俊朗が、蛸畑遺跡に私が。構造的であるがゆえに、吉田じしんが御塚や蛸畑遺跡の虜になったように、生徒たちにもわかりやすかったのだろう。

私は、蛸畑遺跡を踏査したのちじきに堀越町遺跡に遭遇する。この遺跡は、西志賀貝塚に近く、吉田は船人夫町貝塚(5)と呼んでいた。西志賀貝塚が所在する地の一方の字名「船人作」と酷似するこの名の地の遺跡に、吉田が西志賀貝塚の夢を投影していたとしても不思議ではない。堀越町遺跡も、吉田の夢の最後のひとつだったと思うのである。

これにて、蛸畑遺跡の連載は終了するが、連載中、蛸畑遺跡について飯尾恭之氏から教示いただく好機を得た。かつて私が、『名古屋市古代遺跡・天然記念物地図(6)』を手がかりに踏査した場所は台地上だが、飯尾氏が発見し吉田富夫に示した場所は低地だったとのことである。このことを当時のわたしは知らなかったため、同地図の指示する地点を現地に復しての作業であった。地図の誤差による誤解も含めて、「蛸畑遺跡」が人々にいかに伝えられ、理解されていったかという、いわば民族誌的な視点で行文してきたことを付記する。

  1. 吉田富夫「沢観音堂貝塚址」『名古屋の史跡と文化財』、名古屋市教育委員会、1970年3月1日、14頁。
  2. 吉田富夫「尾張国名古屋市西志賀貝塚に就いて」『考古学雑誌』第23巻第6号、日本考古学会、1933年6月5日、40頁。
  3. 名古屋市文化財調査保存委員会(吉田富夫・紅村弘)『名古屋市西志賀貝塚』(文化財叢書第19号)、名古屋市経済局貿易観光課、1958年1月3日、7頁。
  4. 吉田富夫「郷土の考古学入門(7)―中央部(東・中・熱田区)の巻(3)―」『郷土文化』第23巻第3号、名古屋郷土文化会、1969年3月、35頁。
  5. 吉田富夫「則武向貝塚・船人夫町貝塚」『名古屋の史跡と文化財』、前掲書、23-24頁。
  6. 『名古屋市古代遺跡・天然記念物地図』、名古屋市教育委員会、1968年3月31日。
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蛸畑遺跡〔4〕

『緑区の考古遺跡(1)』によると、次の記事が、蛸畑遺跡に関する考古学的なそれの最初という。

蛸畑
緑区鳴海町蛸畑
「尾張志」などの古文献に、この地貝殻を出すよしを記しているが、現在具体的な位置はあまり明確ではない。したがって、それが確実に貝塚であるかどうか、その性質は今日学問的に解明できないが、発見史的に鳴海としては古く、しかも唯一の文献的事実としてよく知られているものである。将来その位置もわかり、性質も明らかになる日が来るならば、きわめておもしろかろう。(吉田(2)

1963年4月1日、愛知郡鳴海町が名古屋市に編入されて緑区となったことを受けて、『名古屋史蹟名勝紀要』は「緑区」の事蹟を増補した。その中に「蛸畑」が加えられた。これ以前における近代の考古学的言及の存否は、現時点で不明である。たとえば、鳴海町町長で雷貝塚を調査した野村三郎は、知り及んでいただろうか。

  1. 三渡俊一郎・松岡浩・吉村睦志・池田陸介『緑区の考古遺跡』(文化財叢書第69号)、名古屋市教育委員会、1976年10月15日、1-88頁。
  2. 吉田富夫「蛸畑」名古屋市文化財調査保存委員会『改訂増補版名古屋史蹟名勝紀要』、株式会社名古屋泰文堂、1963年11月12日(初版:1951年11月18日)、177頁。
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吉田富夫、V・G・チャイルド、大参義一

1971年11月21日に吉田富夫が急逝し、25日から新聞連載されたコラム「遺跡ここかしこ」を1冊に編集した『名古屋の遺跡百話(1)』が、吉田を追悼する唯一のまとまった書となった。同書の編輯と増補をおこなった大参義一は、「吉田富夫先生の先史文化研究(2)」を寄せて吉田の業績を解説、評価している。その約10年後、この文はリライトされて「吉田富夫先生の考古学(3)」になるが、このときV・G・チャイルドに関する記述が新規に加わった。

大参は冒頭近くでエピソードを披露する。

吉田先生の研究の業績について思いをめぐらす時、何時も私の頭に浮かぶのは、かのイギリスの考古学者V・ゴードン・チャイルドのことである。先生自身かって、チャイルドに傾倒している旨を私にもらされたことがあったが、この両先学の果たした学史的役割の中には共通する点が多いことを感ぜずにはいられない(4)

チャイルドの事蹟を概観したあと、次のように書く。

このように考古資料によって原始古代の文化の総合体系化をはかり、研究法を開発し、啓蒙史家としてもすぐれた働きをし、文化財の保護にも情熱をもやしたチャイルドの多面的な活躍は、研究対象の地域こそ異なっていたけれども、吉田先生が果たされた学者としての役割と通ずるものがあり、私の頭の中で葉両者がダブって浮かび上がってくるのである(5)

このあと吉田に関する記述の中心が展開され、文末近くになってふたたびチャイルドが登場する。

先生は自ら見晴台遺跡の全面的な発掘調査に意欲をもやして、健康のすぐれない晩年も、連日現場におもむいて発掘の指導にあたられた。あの温厚な人柄の中に、はげしい情熱が秘められていたわけである。チャイルドが、ファシズムにたいして、学問の立場からはげしい情熱をもやして反ばくをしたことが思いおこされる(6)

以上が、チャイルドに関説した部分である。このように見来たると大参は、吉田とチャイルドのなんらかの関係を論証しているわけではないことがわかる。吉田が反ファシズムだったことを説いてもいない。政治的言説を多くする吉田ではなかったが、たとえば「小学国語読本巻十二第三「古代の遺物」について(7)」は、吉田が反ファシズムの人ではなかったことを示している。

それは大参も、承知のことであっただろう。ならば私たちは、なぜ大参はチャイルドのことを加えたのか、と正しく問わなければならない。チャイルドは、吉田の何かのメタファーだったのではないか。「見えないことを見るように」と、大参が言っているように思えるのである。

  1. 吉田富夫・大参義一『名古屋の遺跡百話』(文化財叢書第61号)、名古屋市教育委員会、1973年11月30日、1-88頁。
  2. 大参義一「吉田富夫先生の先史文化研究」吉田富夫・大参義一、前掲書、68-72頁。
  3. 同「吉田富夫先生の考古学」名古屋市博物館編『吉田富夫コレクション』、名古屋市博物館、1982年4月29日、43-46頁。
  4. 同論文、43頁。
  5. 同論文、43頁。
  6. 同論文、46頁。
  7. 吉田富夫「小学国語読本巻十二第三「古代の遺物」について」『愛知教育』610、愛知県教育会、1938年10月1日、51-55頁。
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