犬塚康博「朝日遺跡の精神史」

新しい論文、「朝日遺跡の精神史」千葉大学大学院人文社会科学研究科編『千葉大学人文社会科学研究』第30号、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2015年3月30日、178–187頁、を発表しました。

要旨 愛知県清須市の朝日遺跡は、1968年の貝殻山貝塚と検見塚の愛知県史跡指定、1971年の大規模破壊–保存運動–貝殻山貝塚の国史跡指定、以後長期にわたる発掘調査を経て、2012年に出土品の国重要文化財指定を見た。この遺跡をめぐって、人びとは何を欲望したのか。遺跡名の変遷と、それにかかわる言説をとおして、この問題を検討した。特に1971年の大規模破壊と保存運動で、人びとの観念は、「貝塚」から「遺跡」への転換を果たし、「群」ならびにその論理的必然たる「全面」を獲得する。これにしたがい、遺跡の全面保存が叫ばれたが、一部の国史跡指定に結果した。保存運動の終焉によって、「全面」は保存から調査へと、自己実現の場を移してゆく。調査の「全面」は、行政–職業研究者の占有するところとなり、今日を迎えている。これを自賛する政治が、出土品の国重要文化財指定であった。では、「保存」はいかに。本稿は、この課題を爾後へ提出した。(1)

内容
1. はじめに
2. 朝日遺跡の名称
1) 朝日貝塚、朝日貝塚群
2) 朝日遺跡群
3. 「朝日遺跡群」の検討
1) 前史
2) 後史
4. 「朝日遺跡」の検討
1) 文化的連続
2) 政治的断絶
5. おわりに

  1. 犬塚康博「朝日遺跡の精神史」千葉大学大学院人文社会科学研究科編『千葉大学人文社会科学研究』第30号、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2015年3月30日、177頁。
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「名古屋の埋蔵文化財保護行政を考える学習交流の集い」開催29年を記念する

『名古屋の埋蔵文化財保護行政を考える学習交流の集い資料集』(表紙)
▲ 『名古屋の埋蔵文化財保護行政を考える学習交流の集い資料集』(表紙、部分)

あす20日は、「名古屋の埋蔵文化財保護行政を考える学習交流の集い」開催から29年。埋文センター策動を粉砕した運動の一階梯。資料集の装丁は、29年前のわたくし。

資料集目次
名古屋市の埋蔵文化財保護行政の経過と現状 1-8
財団法人愛知県埋蔵文化財センターの現状 9
埋蔵文化財ニュース 10-16
見晴台考古資料館の活動~遺跡の活用を中心に~ 17-18
文化財保護の強化(文化課文化財係) 19
志段味地区文化財の取り扱いについて 20-28

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「朝日遺跡群」命名43年を記念する

1971年2月6日、「朝日遺跡群保存会」誕生。

私達はこれら先学諸氏により今まで局地ごとに独立した名称をつけられてきた方法を排し、総括した「朝日遺跡群」という名称でこれらを統一し、(略)呼称していく事にした(1)

「朝日遺跡群」の名称はこれが初見ではないが、この遺跡の大規模破壊を眼前にして定立したことを記念したい。

行政によって「朝日遺跡」の名が執行される1982年9月20日まで、「朝日遺跡群」は続いた。

  1. 飯尾恭之『朝日遺跡群の土器』、朝日遺跡群保存会、1971年9月18日、7頁。
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朝日遺跡群破壊43年を記念する

43年前のいまごろである。清洲町(当時)朝日にある大遺跡の一帯に重機が入り、大規模破壊を開始したのは。

ところで、朝日遺跡群(1982年以降は朝日遺跡)破壊事件と保存運動に言及した所論に接した記憶がない。私が、忘れているだけなのだろうか。愛知県の考古学の状況を批判した渡辺英樹の論文「愛知県下の考古学研究者―戦後の潮流― 」(1)」も、数行触れるだけであった。あるのは、行政権力による万歳総括だけである。この不健全な社会。38度線以北の同工異曲。

そういう事情もあったからだろう。この問題を論じようとしていた岡本俊朗のメモを、よく憶えている。できあがった遺稿追悼集では、コメントでひとことするにとどまったが(写真(2))、もとのメモはもう少し具体的なものであった。いまただちに、岡本の書いた原本にアクセスできないため、ここではコメントの草稿を掲げる。

当時の岡本の課題意識を、そのまま再現して展開することはすでにかなわぬが、1971年の朝日遺跡群破壊事件と保存運動の意味は問われてしかるべきである。

彼の一時期のノートには、「学問論」に関するメモがいたる所に残されている。これを詳細にたどると、当時愛知県下で問題化していた、朝日遺跡群保存運動に対する批判として書かれようとしてたものである事が判る。「遺跡保存運動の論理」と題されたこの草稿は、

Ⅰ.環2と土地改良事業と朝日遺跡群

Ⅱ.71年度中の朝日遺跡群の保存運動(朝日遺跡群保存会、東海の文化財を守る会)

Ⅲ.かつての保存運動と論理―新しい萌芽、賀茂の場合

Ⅳ.保存運動の論理と〈学〉の社会への権力志向(社会的存在価値の確立)

という構成で、構想されており、「学問論」はこの前提―プロローグないしはエピローグ?として用意されていたようである。
現在、手許に残されているメモは、いずれも断片的なものである。しかしそこに展開されている内容は、彼の〈学〉に対する考え方が判るものであり、捨象し難いため、その中で一番文章化されている稿を軸に据えて、他の稿で展開されている内容・表現等を挿入する等して、編集した。原則的に、全文彼の文章で構成し、若干の接続詞等補った。

「学問論」コメント
▲ 「学問論」コメント

  1. 渡辺英樹「愛知県下の考古学研究者―戦後の潮流― 」『プロレタリア考古』第15号、「プロレタリア考古」編集局、1974年11月1日、2-3頁。
  2. (「学問論」コメント)岡本俊朗追悼集刊行会編『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記-日本考古学の変革と実践的精神-』、岡本俊朗追悼集刊行会、1985年8月2日、143頁。
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愛知の管理教育と朝日遺跡群破壊

仲谷義明「序」愛知県教育委員会編『朝日貝塚予備調査報告』、愛知県教育委員会、1970年3月、(序の頁)、同「序」(奥付なし)(『貝殻山貝塚調査報告』、愛知県教育委員会、1972年)、(序の頁)。
▲ 仲谷義明「序」愛知県教育委員会編『朝日貝塚予備調査報告』、愛知県教育委員会、1970年3月、(序の頁)、同「序」(奥付なし)(『貝殻山貝塚調査報告』、愛知県教育委員会、1972年)、(序の頁)。

過日Twitterで、知己 @polieco_arche とやりとりをしていて想起したことを少々。

私が高校に通っていた頃は、愛知の管理教育(1)全盛だった。幸運にも私は県立高校でなかったから、直接の被害は蒙らなかったし、三校禁はあったものの、お構いなしに交流していた。管理教育のシンボルは教育長の仲谷義明(2)。まだ潔癖だった高校生には、悪魔のように見えた。やがて県知事になり、退職後に自殺。五輪招致失敗を苦にしてのことと言われ、いまなお都市伝説の様相を呈している。

仲谷が教育長だったときに起きたのが、1971年の朝日遺跡群破壊事件である。報告書の「序(3)」に、その名が見える。通常、知事本人が書くことは稀で、下級役人が起案し決済をとる。当時の県教委の文化財担当は柴垣勇夫であった。

これより遡って、私が中学生のとき、学校の野外活動で遠方にでかけるのに際して、その付近の遺跡の教示を乞いに、級友と二人で愛知県教育委員会の所轄課に行ったことがある。学校から歩いて5分もしない場所で、通学路でもあったから、教師に相談もせず気安く思い立って事前に電話をし、しかし緊張しながら出かけた。西庁舎の上の方の階へゆき、主旨を伝え話を聞き分布地図のコピーをもらった。私たちに応対した無愛想な人は、「掘るんじゃないぞ」だったか「壊すんじゃないぞ」と付け加えた。中学生にとって、その否定形は威圧的であった。私は、何か悪いことをしているような気分に苛まれた。

以下は後知恵だが、考えてみれば、中学生ができる破壊など知れたもので、じきに起こった朝日遺跡群の破壊の比ではない。分野は異なるが、大阪市立自然史博物館の日浦勇が、自然と人間を「物質的なかかわり」(資源としての自然、環境としての自然)と「精神的なかかわり」(モチーフとしての自然、風土としての自然)とにおいてとらえ、昆虫採集犯罪論に慎重だったのとは雲泥の差がある。(4)

柴垣は、当時二十歳代後半で、文化財保護という権力行政と教育の区別ができなかったのだろうか。そしてその人が、やがて愛知県陶磁資料館に籍を置くのだから、世の中は摩訶不思議である。とは言っても、同館は教育委員会ではなく知事部局所管だから不思議でないのかもしれないが、博物館人、廣瀬鎮だったらあり得ない「掘るんじゃないぞ」「壊すんじゃないぞ」の思想の持ち主が、博物館していたのである。仲谷の管理教育時代の文化財行政は、柴垣が執り行っていた。柴垣に限らず、県の教育行政全体の文化が仲谷的だったのだろうが、高校生の私には仲谷すなわち柴垣であった。

  1. 管理教育 – Wikipedia」。
  2. 仲谷義明 – Wikipedia」。
  3. 仲谷義明「序」愛知県教育委員会編『朝日貝塚予備調査報告』、愛知県教育委員会、1970年3月、(序の頁)、同「序」(奥付なし)(『貝殻山貝塚調査報告』、愛知県教育委員会、1972年)、(序の頁)。
  4. 日浦勇「われわれにとって「蝶」とは何か―放飼問題を考えるために(I)―」日浦勇著、日高敏隆・堀田隆・千地万造・柴田保彦・瀬戸剛・宮武頼夫・那須孝悌編『日浦勇著作集』、日浦さんの遺稿出版する会、1984年10月10日、296-298頁。初出は『やどりが』80・90号、1977年、35-37頁。
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