続々・「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論

名古屋城の石垣が政治化しているが、これとは関係なく「「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論」の3回目。前回前々回から4年近くが過ぎ、旧聞に属すかもしれず、すでに周知されていることも思ったが、紫川以外での刻印石の事例について――。

米野・西日置・北一色・露橋の神社寺院の境内には、印の刻まれた名古屋築城の残石が多数遺存して居り、また、中川運河開鑿の際現小栗橋附近より数十個の印の彫られた名古屋築城の残石が出土している(1)

全文は、次の論文を参照されたい。

坂重吉「笈瀬川及び其附近より出土の名古屋築城の残石」『尾張の遺跡と遺物』第6号、名古屋郷土研究会、1939年7月、原本の頁数不明(『尾張の遺跡と遺物』上巻、株式会社愛知県郷土資料刊行会、1981年12月14日、144–146頁、による。)

名古屋城以外における刻印石には、1987年の岸雅裕氏も、1939年の坂重吉氏も、「残石」という同じ概念を用いていたことになる。約半世紀を隔てて同期する「残石」はナラティヴである。そしてそれらは、ほんとうに「残」であったのだろうか――。

それを物象化するとき、名古屋城学芸員の「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」という倒錯が生まれる。

  1. 坂重吉「笈瀬川及び其附近より出土の名古屋築城の残石」『尾張の遺跡と遺物』第6号、名古屋郷土研究会、1939年7月、原本の頁不明(『尾張の遺跡と遺物』上巻、株式会社愛知県郷土資料刊行会、1981年12月14日、145頁、による。)
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続・「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論

「㉞刻印石」
▲ 「㉞刻印石」(部分)

先の正編で、次のように書いた。

さらに学芸員の言う、「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」は倒錯である。東谷山で刻印石が見つかっても、名古屋城への転用は直接に証明することはできない(1)

以下は、証明できないことの証明である。

刻印石は、名古屋市中区の紫川遺跡の発掘調査で見つかっている。これを出品した展覧会図録は、写真とともに次のように書いた。

㉞刻印石
江戸時代の城下町に流れていた紫川(水路)の護岸の敷石として使われていたもので、名古屋城の石垣に見える刻印に酷似した印が刻まれている。築城時代の残石が利用されたものか。(現中区大須一丁目出土(2)

「築城時代の残石が利用されたものか」とは、疑問形で書く通りにこれは想像であり、刻印石が名古屋城以外で知られていなかった当時の現状を背景に、「城下町・名古屋」という展覧会タイトルに寄せて、名古屋城への想像力を誘ったものと考えられる。このキャプションの執筆者は不明だが、展覧会の主担当は岸雅裕氏であり、厳しい史料批判で知られる研究者であったから、逸脱はしていないとみなしてよい。

事実は、刻印石が名古屋城と紫川遺跡で確認されているということである。展覧会が開催された1987年以後の、発見例があるかもしれない。いずれにしても、「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」というのは明白な虚偽で、名古屋城または紫川への転用が想念される程度なのである。厳密には、前回書いた次のとおりである。

論理的には、名古屋城石垣の石に東谷山の古墳の石であることを証明するものがなければならない。つまり、たとえば楔痕を境にして分かれてしまった石の片方が東谷山に、もう一方が名古屋城にあるような接合資料の確認こそが、明々白々な証拠となる。石の目が接合する場合も含まれるだろう(3)

なお、この刻印石は名古屋市博物館に蔵されている。

  1. 「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論
  2. 名古屋市博物館編『開館10周年記念特別展 城下町・名古屋 江戸時代の町と人 一九八七・九・二十六~十一・一』、名古屋市博物館、1987年9月25日、21頁。
  3. 「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論
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