「この様な形で破壊されていく遺跡の現状を、特に見晴台とのアンバランスを見つめ考えたいと思います」にこめられた希望は、天白・元屋敷遺跡破壊(2011年発覚)と「歴史の里」との「アンバランス」を再演する名古屋市教育委員会によって踏みにじられてゆくのであった。▲1974年1月8日付お知らせ、同日12-18時昭和局消印。
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天白・元屋敷遺跡「不法造成」発覚8周年
8年前のきょう、天白・元屋敷遺跡(名古屋市守山区中志段味)の大規模破壊が判明しました。
2010年から2011年にかけておこなわれた工事で、この遺跡が広範囲にわたり根こそぎ破壊されていたのです。そして3年後の2014年10月、「不法造成」(中日新聞)として大々的に報道されるのでした。
8年前に撮影した遺物写真10枚は、すぐに写真共有コミュニティサイトのFlickrで「中志段味「郷畑」の遺物」として公開してきました。そして今回、同時に撮影した風景写真12点とあわせた全22枚を公開します。
〔ご案内〕講演「天白・元屋敷遺跡の考古地理学と「志段味城」」
天白・元屋敷遺跡二題
塚本古墳(1)
▲ 1911年(明治44)の塚本古墳
▲ 1985年の塚本古墳
名古屋市守山区上志段味山ノ田に、「塚本古墳」と命名された古墳がある。1995年に調査され、破壊された。その16年後に刊行された報告書は書く。
1995年、区画整理事業にともなう工事用道路建設中に、字山ノ田において古墳が新規に発見され、所在場所の通称から塚本古墳と名づけられた(1)。
「新規に発見」とあるのは、1995年当時の名古屋市教育委員会が「新規に発見」したという意味である。
遅くとも1980年代前半までには、古墳の可能性が知られていた。1979年度に守山区の遺跡分布調査を担当した名古屋市教育委員会職員岡本俊朗氏の手控えの名古屋都市計画基本図には、塚本古墳の場所にあたる土地区画に「コフン」と手書きメモが添えられている。地元での聴きとり等で、得られたのであろう。
さらに大日本帝国陸地測量部の地図(2)には、山ノ田の集落と東山の集落の間の水田中に、ケバ線で囲まれたマウンドが描かれており、私たちの注意をひいていた。山ノ田から北西にゆく道は、東山から東にゆく道が、南に逆へ字状に屈曲する箇所で接続するが、そのやや南東、道の東側にマウンドは描かれていて、塚本古墳の場所に対応する。
発掘調査期間は1995年5月10日(水)~19日(金)で、土日閉庁日と雨天をのぞくと、実質5日間の調査であった。報告書には、「発掘調査期間の都合から十分に測量できなかった(3)」の一文が見られるが、正しくは、名古屋市教育委員会の遺跡把握の精度、程度が低かったために、事前に知りえたにもかかわらず見過ごし、工事中に発見、不充分な調査に結果させた、である。典型的な職務怠慢であった。この様式が、天白・元屋敷遺跡破壊や湿ケ遺跡破壊を生み、歴史の里至上主義を形づくってゆくことを知るのは容易だろう。(つづく)
注