天白・元屋敷遺跡「不法造成」発覚8周年

8年前のきょう、天白・元屋敷遺跡(名古屋市守山区中志段味)の大規模破壊が判明しました。

2010年から2011年にかけておこなわれた工事で、この遺跡が広範囲にわたり根こそぎ破壊されていたのです。そして3年後の2014年10月、「不法造成」(中日新聞)として大々的に報道されるのでした。

8年前に撮影した遺物写真10枚は、すぐに写真共有コミュニティサイトのFlickrで「中志段味「郷畑」の遺物」として公開してきました。そして今回、同時に撮影した風景写真12点とあわせた全22枚を公開します。

天白・元屋敷遺跡(2011年6月15日)

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志段味橋南詰、庄内川左岸堤防から上流左岸(名古屋市・瀬戸市)方面を見る。(撮影:犬塚康博)

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〔ご案内〕講演「天白・元屋敷遺跡の考古地理学と「志段味城」」

天白・元屋敷遺跡周辺図
▲ 天白・元屋敷遺跡周辺図

次の催しでしゃべります。よろしければどうぞ。

志段味の自然と歴史に親しむ会11月例会

テーマ 天白・元屋敷遺跡の考古地理学と「志段味城」

講師 犬塚康博(志段味の自然と歴史に親しむ会世話人)

日時 11月25日(土)午後2時~4時

会場 名古屋市守山生涯学習センター視聴覚室

要旨 3月に開催した天白・元屋敷遺跡の第3回シンポジウムで、講師はコメンテーターをつとめましたが、時間の関係で用意したことのすべてをお話しできませんでした。そこで、発表できなかった中世の部分、そして発表した古代の部分もふくめ、あらためてじっくりとお話しします。

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天白・元屋敷遺跡二題

志段味の自然と歴史に親しむ会の会報最新号に、天白・元屋敷遺跡に関する文章をふたつ発表しました。「天白・元屋敷遺跡の範囲」は、3月21日のシンポジウムの際、プリントとしてお配りしたものの定稿です。「川湊という物語」では、天白・元屋敷遺跡の川湊に関する諸問題について、発掘担当者の考え方の変遷や吉田富夫氏の論考などを通じて、考えてみました。どうぞご覧ください。

  • 「天白・元屋敷遺跡の範囲」志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会編『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第67号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、2015年10月15日、15–22頁。
  • 「川湊という物語」、同書、23–28頁。
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塚本古墳(1)

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▲ 1911年(明治44)の塚本古墳
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▲ 1985年の塚本古墳
名古屋市守山区上志段味山ノ田に、「塚本古墳」と命名された古墳がある。1995年に調査され、破壊された。その16年後に刊行された報告書は書く。

1995年、区画整理事業にともなう工事用道路建設中に、字山ノ田において古墳が新規に発見され、所在場所の通称から塚本古墳と名づけられた(1)

「新規に発見」とあるのは、1995年当時の名古屋市教育委員会が「新規に発見」したという意味である。

遅くとも1980年代前半までには、古墳の可能性が知られていた。1979年度に守山区の遺跡分布調査を担当した名古屋市教育委員会職員岡本俊朗氏の手控えの名古屋都市計画基本図には、塚本古墳の場所にあたる土地区画に「コフン」と手書きメモが添えられている。地元での聴きとり等で、得られたのであろう。

さらに大日本帝国陸地測量部の地図(2)には、山ノ田の集落と東山の集落の間の水田中に、ケバ線で囲まれたマウンドが描かれており、私たちの注意をひいていた。山ノ田から北西にゆく道は、東山から東にゆく道が、南に逆へ字状に屈曲する箇所で接続するが、そのやや南東、道の東側にマウンドは描かれていて、塚本古墳の場所に対応する。

発掘調査期間は1995年5月10日(水)~19日(金)で、土日閉庁日と雨天をのぞくと、実質5日間の調査であった。報告書には、「発掘調査期間の都合から十分に測量できなかった(3)」の一文が見られるが、正しくは、名古屋市教育委員会の遺跡把握の精度、程度が低かったために、事前に知りえたにもかかわらず見過ごし、工事中に発見、不充分な調査に結果させた、である。典型的な職務怠慢であった。この様式が、天白・元屋敷遺跡破壊や湿ケ遺跡破壊を生み、歴史の里至上主義を形づくってゆくことを知るのは容易だろう。(つづく)

  1. 名古屋市見晴台考古資料館編『塚本古墳』(名古屋市文化財調査報告81、埋蔵文化財調査報告書64)、名古屋市教育委員会、2011年3月28日、1頁。
  2. 二万分一地形図名古屋近傍第七号(共二十二面)水野村』、大日本帝国陸地測量部、1911年。
  3. 名古屋市見晴台考古資料館編、前掲書、1頁。
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「天白・元屋敷遺跡の未来」

発掘調査が終了し、発掘会社も撤収した翌日の7月2日(木)、天白・元屋敷遺跡の破壊がはじまりました。保存と活用を求める声を無視して、丁寧に丁寧に検出されてきた、中世城館や古代大溝、古代の住居跡群など貴重な遺構がどんどん壊されてゆきます。言葉を失います。

過日、「志段味の遺跡をたずねて」と題して講演することがありました。その際、「天白・元屋敷遺跡の未来」と立項して、私たちが目の当たりにする遺跡破壊とは何なのかについて触れました。その部分の講演原稿を、以下に再録します。

天白・元屋敷遺跡のお話をしてまいりました。最初に申し上げましたように、この遺跡は区画整理のまっただなかにあります。地盤改良で不法に壊されました。そしていまおこなわれている発掘調査は、調整池をつくるための調査です。つまり、調査が済めば、また根こそぎ破壊されてしまうわけです。遺跡のすべてが失われるわけではありませんが、主要な遺構、つまり中世城館や大溝はなくなってしまいます。これをどうにかして守りたいと思いますが、市も教育委員会も区画整理組合も、公社もまったく熱心ではありません。

私たちは、つい最近、イスラム国、イスラミクステートが博物館の陳列品や遺跡を破壊するのをニュースで見聞きしました。少し前、2001年には、タリバンがバーミヤンの石仏を破壊したニュースに接しました。わたしたち日本人も。これと何ら変わらないことを、日々おこなっているのかもしれないと思えてきます。わが国の、わが民族の、貴重な歴史遺産を、この手で破壊しているわけです。

日本人は、彼らのことをあれこれ言える立場にないでしょう。イスラミクステートやタリバンは、イスラムの信仰を背景としていました。明治維新のときの廃仏毀釈も、政治体制の変化に反応した、神道と仏教という宗教にかかわる動きでした。現在のわが国の遺跡破壊は、信仰ではなく、ただ単に金儲け、拝金です。遺跡の未来は、暗黒と言わざるをえません。そう言えば、金儲けのために戦争をしようという動きもただいま急です。しかし、遺跡の保護、文化財と人のコミュニケーションの幸福なあるべきすがたは、平和な世界のなかにしかあり得ません。イスラミクステートもタリバンも戦時下です。明治維新は内戦状態でした。いまは、復元だ木造再建だとにぎやかな名古屋城ですが、天守閣も御殿も、日米のおろかな戦争指導者とそれを支えた両国民のせいで、失われてしまったことを忘れてはならないと思います。でなければ、きっと繰りかえすでしょう。

長くなりました。以上です。ご静聴、ありがとうございました(1)

  1. 「志段味の遺跡をたずねて」の「6.天白・元屋敷遺跡の未来」講演原稿。2015年6月10日。
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