続・「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論

「㉞刻印石」
▲ 「㉞刻印石」(部分)

先の正編で、次のように書いた。

さらに学芸員の言う、「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」は倒錯である。東谷山で刻印石が見つかっても、名古屋城への転用は直接に証明することはできない(1)

以下は、証明できないことの証明である。

刻印石は、名古屋市中区の紫川遺跡の発掘調査で見つかっている。これを出品した展覧会図録は、写真とともに次のように書いた。

㉞刻印石
江戸時代の城下町に流れていた紫川(水路)の護岸の敷石として使われていたもので、名古屋城の石垣に見える刻印に酷似した印が刻まれている。築城時代の残石が利用されたものか。(現中区大須一丁目出土(2)

「築城時代の残石が利用されたものか」とは、疑問形で書く通りにこれは想像であり、刻印石が名古屋城以外で知られていなかった当時の現状を背景に、「城下町・名古屋」という展覧会タイトルに寄せて、名古屋城への想像力を誘ったものと考えられる。このキャプションの執筆者は不明だが、展覧会の主担当は岸雅裕氏であり、厳しい史料批判で知られる研究者であったから、逸脱はしていないとみなしてよい。

事実は、刻印石が名古屋城と紫川遺跡で確認されているということである。展覧会が開催された1987年以後の、発見例があるかもしれない。いずれにしても、「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」というのは明白な虚偽で、名古屋城または紫川への転用が想念される程度なのである。厳密には、前回書いた次のとおりである。

論理的には、名古屋城石垣の石に東谷山の古墳の石であることを証明するものがなければならない。つまり、たとえば楔痕を境にして分かれてしまった石の片方が東谷山に、もう一方が名古屋城にあるような接合資料の確認こそが、明々白々な証拠となる。石の目が接合する場合も含まれるだろう(3)

なお、この刻印石は名古屋市博物館に蔵されている。

  1. 「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論
  2. 名古屋市博物館編『開館10周年記念特別展 城下町・名古屋 江戸時代の町と人 一九八七・九・二十六~十一・一』、名古屋市博物館、1987年9月25日、21頁。
  3. 「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論
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伊藤禎樹『伊勢湾地域古代世界の形成』刊行記念講演会

60年にわたり、名古屋で考古学研究を続けてこられた伊藤禎樹さんの著書『伊勢湾地域古代世界の形成』が、この3月に刊行されました。これを記念して、講演会を開催します。ふるってご参加ください。

日時
2014年8月10日(日)午後1時30分開演、午後4時終演予定

場所
イーブルなごや・名古屋市女性会館 2階第2研修室
アクセス:地下鉄名城線「東別院」下車、東へ徒歩5分
住所:460-0015名古屋市中区大井町7-25
電話:052-331-5288
ホームページ:https://e-able-nagoya.jp/

内容
講演「わたしの考古学六十年」伊藤禎樹さん
報告「伊藤禎樹著作集の意義」小林義孝さん(NPO法人摂河泉地域文化研究所)

■会場は伊藤禎樹著作集刊行会の名称で借りています。参加は無料です。なお、内容については追加・変更することがあります。また、終演後、懇親会を予定しています。参加いただける方は、当日でも構いませんが、事前に連絡いただけるとありがいです。本サイトの「Contact」からご連絡ください。(発起人:小林・犬塚・櫻井)

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