野並谷1号墳 〔3〕

野並谷1号墳は、名古屋市遺跡分布図(1)に掲載されていない。同図は滅失した遺跡も掲載しているため、同図作製までに同古墳が滅失していたことにより不掲載となったのではない。遺跡として、認知されなかったようなのである。

同図作製の担当者は、緑区の遺跡分布調査がおこなわれた1978年当時、名古屋市教育委員会職員の岡本俊朗氏であった。同氏は、名古屋市立桜台高等学校歴史クラブのメンバーであり、野並谷1号墳調査時は同クラブに所属していた。同古墳のことを知っていたはずであり、分布図に同古墳を掲載し得る立場にいた。現に、同クラブが調査し報告した「黒石須恵器窯跡(2)」は、「NN104号(黒石N–1号窯)」として分布図に掲載されている。岡本氏は、野並谷1号墳を古墳とみなしていなかったのであろうか。名古屋市教育委員会または名古屋市見晴台考古資料館に保管されているはずの遺跡台帳が、そのあたりの事情を残しているはずである。

なお私は、津田論文(3)を参照して、『新修名古屋市史』第1巻で次のように書いた。

さらに、古鳴海の谷の奥には、野並谷一号墳と名付けられた全長二五㍍ほどの小規模な前方後円墳があった。盗掘を受けていたが、粘土を埋土とする土壙が平面で確認され、調査者は粘土槨とみなしている。古鳴海の谷は、水利の点などから人間活動が成立する条件をそなえており、古墳がつくられた可能性はある(4)

野並谷1号墳の現在の場所は、名古屋市緑区梅里2丁目24−16あたりに後円部が位置するものと思われる。
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▲ 野並谷1号墳の現在地

  1. 『名古屋市遺跡分布図(緑区)』、名古屋市教育委員会、1979年3月。
  2. 津田素夫「黒石須恵器窯跡」『あゆち』創刊号、名古屋市立桜台高等学校歴史クラブ、1966年3月19日、89–90頁。
  3. 同「野並谷1号墳について」、同書、85–89頁。
  4. 犬塚康博「古墳時代」新修名古屋市史編集委員会編『新修名古屋市史』第1巻、名古屋市、1997年3月31日、431頁。
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野並谷1号墳 〔2〕

野並谷1号墳の調査報告は、以下のとおりである。同古墳に直接かかわる記述は短いため全文を掲出し、これに後続する古墳の一般的説明は省略した。

これも我々の良き先生であるところの飯尾さんが、以前からこの野並地区をくまなく歩いて遺跡をさがしてこられ、幾多の窯跡や包含地などを発見されている。今度調査した古墳もその際に見つけられたものである。その時の話によると、三面を低い山で囲まれた小さな谷に、こんもりと木が生い茂り、ポツンといかにも不自然にあったそうで、さらにその周囲が堀になっていたとさえ思われるような形をし、湿地帯をなしていたそうである。後で調査の為、我々も同行したが、やはり同感であった。ここに書くのは、その時のおおよそのあらましです。調査は、十一月七日・十四日でした。古墳の発掘は今回が初めてなので、大へん興味をそそりました。しかし、発掘というものは、一種の破壊とも言えるため、この貴重な資料には、万全かつ真(ママ)重をきして行ないました。我々の見たところでは察しがつかないのですが、飯尾さんの、どうも前方後円墳らしいとの話を聞くと、なるほど●うなずけるところがあった。ともかく、木の生い茂っているのをスコップでかき分け上に上ってみました。ヨレヨレの服に長グツ、背にはナップサックを背負い、手にスコップを一丁といういわゆる未開地用発掘スタイル?で行ったので、大へん楽をしました。上ってみると、どうも後円部が西向きのようでした。その後後円部中央部付近に、何か土を掘り返したような地層の現われている所があった。これはどうも以前に盗掘をやった跡らしかった。古墳には昔しから盗難におそわれて貴重な副飾品などの遺産がフイになるケースが大へんに多く、特に鎌倉時代には、盗掘ブームさえ巻き起ったそうである。非常に残念な事である。我々は一応その部分にトレンチを50センチ四方程設けた。松などの枝が邪魔をして掘るのに苦労した。そこのところの土は大へん小石まじりでやわらかく、スコップが、サクッ、サクッとはいり予想通りきれいに中央部の重要なところだけ盗掘をした跡だということがはっきりした。これでは手の施しようがないので、遺構がどこまで伸びているか末端部分だけでも調査しようと、トレンチを東に50センチばかり広げた。幸にも、末端部だけは、取り止めることができた。さっそくきれいに掃除をして記録することにした。これは粘土槨といって、後で埋葬について参考資料によってそれに関連したことを書いておくが割竹形木棺を直接土中に埋め外面を全部厚く粘土●包むもので、何年かたって木が腐っても粘土だけが残るものである。(1)

津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
▲ 津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
▲ 津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
▲ 津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
(つづく)

  1. 津田素夫「野並谷1号墳について」『あゆち』創刊号、名古屋市立桜台高等学校歴史クラブ、1966年3月19日、85–86頁。
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野並谷1号墳 〔1〕

野並谷1号墳(1955年12月10日撮影) ▲ 野並谷1号墳(1955年12月10日撮影)

「野並谷1号墳」と名づけられた古墳がある。飯尾恭之氏が発見し、同氏指導のもと名古屋市立桜台高等学校歴史クラブによって調査された。その報告(1)については次の機会に譲り、先に空中写真(2)で知ることのできたようすを紹介したい。

1955年12月10日撮影分(3)に見られるものが、いまの時点での初見である。戸笠池(現・名古屋市天白区)上流の、大略東西方向の一支谷の中ほど、長軸を東西方向にもつ前方後円形の地形が見える。その上流と下流に、谷の軸線に垂直の直線地形があり、谷をせき止めた堰堤と思われる。前方後円形の地形はため池の中に位置し、写真は渇水状態のようだが、冠水状態では池の中で島状を呈していたものと思われる。

その後、1964年5月8日(4)1965年4月12日(5)の各撮影分では、当該地形および周囲において植物の生育したようすが見てとれる。その後一帯の開発が進み、1969年5月4日(6)撮影分ではかろうじて見えるが、その後1973年撮影分からは見えなくなっている。(つづく)

  1. 津田素夫「野並谷1号墳について」『あゆち』創刊号、名古屋市立桜台高等学校歴史クラブ、1966年3月19日、85–89頁。
  2. 「名古屋市都市計画情報提供サービス」の「都市計画写真地図情報」を利用した。
  3. http://scr.wagmap.jp/nagoya_tokeizu/files/photo/img/photo/s30/600/NA_19551210_c11_0_0196_600.jpg
  4. http://scr.wagmap.jp/nagoya_tokeizu/files/photo/img/photo/S39_43/600/NA_19640508_C04_0_00_2555_600.jpg
  5. http://scr.wagmap.jp/nagoya_tokeizu/files/photo/img/photo/S39_43/600/NA_19650412_C03_0_09_5124_600.jpg
  6. http://scr.wagmap.jp/nagoya_tokeizu/files/photo/img/photo/S44_47/600/NA_19690504_C08_0_00_8913_600.jpg
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