見晴台と名考会に関する問題提起

▲ 「見晴台と名考会に関する問題提起」のパンフレット、1972年5月・11月。

小原博樹の行動、言動等を通じて、1972年、1973年頃の見晴台の一端を見てきたが、これは、見晴台遺跡の発掘調査と公園化の進め方が、それ以前と大きく変わろうとしていたときの、独り小原にとどまらない集合的な体験であった。

1972年に2度おこなわれた「見晴台と名考会に関する問題提起」が、運動としての見晴台の、直接のはじまりである。用意されたパンフレットの、1度めの全文と2度めの一部が、『見晴台のおっちゃん奮闘記-日本考古学の変革と実践的精神-(1)』に復刻されている。その際に、私が書いたコメントは次のとおり。

市民参加の見晴台遺跡発掘調査の確立とは、即ちそれを担う主体の確立であり、在野の研究団体たる名古屋考古学会を通じてその実現を構想する事は、必然であった。そして、それは名考会の運営体制の改革をも意味し、その実現を迫る事になった。彼(岡本俊朗のこと─引用者注)と伊藤禎樹・小原博樹・斎藤宏・桜井隆司・村越博茂の会員諸氏によって、名考会の’72年春の大会(5月21日)席上、問題提起はなされた(2)

名考会の’72年秋の大会(11月26日)に於て、問題提起は、彼(岡本俊朗のこと─引用者注)と伊藤禎樹・犬塚康博・小原博樹・斎藤宏・桜井隆司・村越博茂・安田利之ら会員諸氏によって再びなされた。この時既に、第10次見晴台遺跡発掘調査の成功、桜本町遺跡破壊事件への直面という経験を得ており、問題提起は、その報告という性格を帯びた。これを機に、〈在野の研究者集団〉という回路を離れ、より直接的に〈非専門家たる市民〉が、見晴台の主人公となっていくのである(3)

第1次から第8次が、まずあった。そして、第10次とその前後の「見晴台と名考会に関する問題提起」が、それ以降を決定した。そのとき、第9次はアモルファス(4)となった。

見晴台の転換期が、急ぎ足で通り過ぎていった。

  1. 岡本俊朗追悼集刊行会編『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記-日本考古学の変革と実践的精神-』、岡本俊朗追悼集刊行会、1985年8月2日、1-588頁。
  2. 同書、103頁
  3. 同書、113頁
  4. 夏の遺跡(2)」『ore nest : blog』、2011年9月29日。
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オリンピックに反対する

1981年頃を想い起こしていた。

瑞穂運動場で国際大会すなわちオリンピックの競技をおこなうためには、何メートルか足りないということで改築となった。まだ五輪開催が決まっていないのに。運動場は国指定史跡の大曲輪遺跡に立地していたため、発掘調査がおこなわれた。面積は広大で、体制の充分でない名古屋市の埋蔵文化財行政はアップアップだった。

名古屋市役所の労働組合は「簡素で民主的なオリンピック」を謳っていたが、埋蔵文化財行政の現状を考えればとんでもないことであった。岡本俊朗と山田鉱一は「市職労はオリンピック反対の先頭に立て!(1)」を労働組合の機関紙に寄せ、組合の態度を問うた。

この年の春におこなわれた名古屋市長選挙では、オール与党でオリンピック招致を進める革新市長・本山政雄に、ノーオリンピックを掲げて竹内義次が対抗した。ある夕、組合の会議を終えた岡本と私は、久屋公園で竹内が集会を開いているところに遭遇。岡本からのカンパを、私は竹内に手渡した。

閑話休題。発掘調査では、縄文時代前期の屈葬人骨が完全なかたちで検出されて話題になった。人骨は土ごと取り上げられて名古屋市博物館の常設展示に置かれ、瑞穂運動場には模造人骨の施設が作られた。実物から型どりした複製ではなく、模したものである。製作は業者がおこない、インド人の骨を購入して古色を着けて設えたと当時聞いた。これが事実で、その後その模造が別のものに変えられていなければ人権問題に抵触するだろう。そうでなくても、その人権感覚は疑われる。分析すればわかること。オリンピックの置きみやげである。

戦争にしろオリンピックにしろ、巨大プロジェクトは暴力的である。

  1. 岡本俊朗・山田鉱一「市職労はオリンピック反対の先頭に立て!」『日刊あした』No.1455、名古屋市職員労働組合教育委員会事務局支部、1981年9月14日、1-2頁。
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土器を叩き割る

ある夏の見晴台遺跡発掘調査でのできごと。調査も終盤を迎え、残してあった土層観察用畔を撤去することになった。それまでの慎重な発掘から一転して、鍬で掘り崩してゆく作業である。土層中に遺構面があれば注意して検出、確認するが、ここは台地上の遺跡。堆積した土は薄く遺構面も不明なため、いきおい最終遺構面を検出して写真撮影に備えることになる。土層中の遺物に注意して。

このとき小原博樹が土器を叩き割った。「そのような掘り崩し方をしていたら、遺物を壊してしまう」という丹羽博の心配どおりに、小原は土器をまっぷたつに叩き割ってしまったのである。土器をあやめたことに対して、丹羽はむくれていた。小さな破片ではなく、ある程度かたちのある土器だったからであろう。土器に執着する丹羽は、余計に怒っているようだった。小原は、開き直って平然としていた。得意気にすら見えた。高校生と中学校教員という立場ではなく、遺物至上派と考古学批判派との対峙、とでもいうべき闘争をそこに見た。小原は闘っていたのである。

大学時代に考古学を通じて朝鮮語をかじった。それが縁で、運動として参加した見晴台で在日韓国、朝鮮人への差別撤廃の運動を紹介され、いまだに多くの差別があることを知った(1)

「僕は半分獅子に同感です」──私はほまったく小原に同感であった。10次(1972年)、11次(1973年)のいずれかはっきりしないが、「あのあたりのあの方向の畔」という私のぼんやりとした記憶と発掘区の図面から推して、11次のことだったように思う。

岡本俊朗の「こわれたら、くっつければいい(2)」は美談だった。「土器を叩き割る」はそうでないかもしれない。ならば、あえてテロリズムと言おう。土器を叩き割った小原だが、不登校や失踪した生徒によくつきあっていたようだし、在日朝鮮人生徒の教育を考える懇談会も1980年3月発足以降長く続けていた。そういう社会の問題を隠蔽している象徴として、土器すなわち土器を愛でる考古学を感じとっていたのだと私は解する。ゆえに叩き割った。別のことがらを混同しているとして詰ることは容易い。子どもじみていると優等生的に言うことも簡単である。私はアポリアを見る(3)

丹羽博は、高校生のときから地元の学会誌に踏査報告を投稿する考古少年で、考古学を専攻すべく別府の大学に進んだが、若くして亡くなったと聞く。

小原博樹は、去年のきょう、亡くなった。

  1. 小原博樹「韓国、朝鮮問題、差別撤廃運動と岡本さん」岡本俊朗追悼集刊行会編『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記─日本考古学の変革と実践的精神─』、岡本俊朗追悼集刊行会、1985年8月2日、179頁。下線は引用者による。
  2. 片山千鶴子「「こわれたら、くっつければいい」」岡本俊朗追悼集刊行会編、前掲書、229-231頁。
  3. 福岡猛志「「土器をこわす」ということ─岡本さんの想い出─」岡本俊朗追悼集刊行会編、前掲書、257-259頁。
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岡本俊朗

その人、岡本俊朗が逝って30年。

写真は、岡本俊朗追悼集刊行会編『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記-日本考古学の変革と実践的精神-』、岡本俊朗追悼集刊行会、1985年8月2日、1-588頁、が刊行されたときの新聞報道。

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▲毎日新聞 1980年8月3日以前


▲中部讀賣新聞 1985年8月3日(土)市内版


▲朝日新聞 1985年8月12日(月)夕刊


▲中日新聞 1985年8月26日(月)県内版

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