「大衆の考古学」を生きた人

この正月、「1970年代初頭―1972年だったと思う―、秀吉の朝鮮出兵に関する批判的な内容のプリントを抱え、小原さんは私の前にあらわれた(1)」と書いた。暮れ、年賀欠礼状に接して、1ヶ月ほどした頃のことである。このとき、「秀吉の朝鮮出兵に関する批判的な内容のプリント」は手もとになく、記憶にあるだけであった。

これがそれであろうか。1972年11月の日付から、見晴台遺跡第10次発掘調査のあとで、11月26日おこなう予定の、2回目の「名考会と見晴台に関する問題提起」の打ち合わせの際に持参されたものと思う。ちょうど41年前のいま頃である。多少、時間の誤差はあるかもしれない。補足すれば、発掘調査ですでに会っているため、このプリントを抱えて現れたときが初対面ではない。あるいは11月以前に、別のプリントを抱えて現れていたかもしれない。定かでないが、いずれにしても1972年のことである。

小原は考古学と朝鮮問題を併行させていた。やがて考古学は後景化するが、課題の中心や重心が、考古学から別の問題に移ってゆくことがあったとしても、それは「大衆の考古学」の立場からすれば、延長あるいは変差として理解可能である。次の定義が、このことを支持する。

西欧帝国主義のアジア・アフリカ人民の抑圧政策のなかで生まれた排外主義的性格、暴虐的な天皇制ファシズムに屈服し、日本文化の中の朝鮮的性格、沖縄的性格、アイヌ的性格を抹殺し、多くアジアの人々への犯罪的行為=侵略戦争へ加担していった日本考古学を、正しく綜括し、発展させていく内容が、「大衆の考古学」である(2)

日本史・世界史を、考古学に内在させる「大衆の考古学」は、それゆえ常に外部に開かれている。外部を内在しているのである。考古学から逸脱する契機を内在するということであり、無限の自己言及性を有することを意味する。考古学の解体をはらむ考古学である。だから小原が、「いつしか見晴台とは疎遠になってしまった(3)」あとも、彼に考古学の匂いや色を私が感じ続けたのは、小原がむかし考古学をしていたからではなく、ずっと「大衆の考古学」を生きていたからだと思う。

思想家や、理論家や、研究者を、ある種、蔑むまなざしの持ち主だった小原は、それゆえにキュートでナイーブだった。彼のなすレジュメ、プリント、ビラ、エトセトラ、活動家のそれではなかった。それでいて、小原の筆跡になるものの多いことにいまあらためて気づく。活動家っぽくない活動家。追悼してもしきれぬが、ひとまず小原の話題を積極的にすることは了おうと思う。いいかな?

合唱。



  1. 追悼 小原博樹さん」『ore nest : blog』、2013年1月2日。
  2. 「見晴台発掘と僕達の考古学─「職人の考古学」↔「趣味の考古学」を止揚し、「大衆の考古学」を創造しよう!─ 」伊藤禎樹、犬塚康博、岡本俊朗、小原博樹、斎藤宏、桜井隆司、村越博茂、安田利之『名考会と見晴台に関する問題提起─その2』、1972年11月26日、13頁。
  3. 小原博樹「韓国、朝鮮問題、差別撤廃運動と岡本さん」岡本俊朗追悼集刊行会編『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記─日本考古学の変革と実践的精神─』、岡本俊朗追悼集刊行会、1985年8月2日、179頁。
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大衆の考古学

私たちは見晴台で、「大衆の考古学」を創造しようとしたのである。それが、小原博樹の言う「運動として見晴台に参加した」の「運動」の意であった。

「大衆の考古学」とは何か。理論的作業は長文だが、次のようにまとめている。

「歴史の原動力は、ただ人民だけであり、人民が歴史を創造する」ことを明らかにし、被抑圧階級のなまの姿を復元しうる考古学の方法論的特色を十分発揮するのが、「大衆の考古学」である。西欧帝国主義のアジア・アフリカ人民の抑圧政策のなかで生まれた排外主義的性格、暴虐的な天皇制ファシズムに屈服し、日本文化の中の朝鮮的性格、沖縄的性格、アイヌ的性格を抹殺し、多くアジアの人々への犯罪的行為=侵略戦争へ加担していった日本考古学を、正しく綜括し、発展させていく内容が、「大衆の考古学」である。全くばかげた学閥、セクト主義を排し、国際的にも、あらゆる国の人達との平和を願う(無論現実的に)なかで創造される考古学が、「大衆の考古学」である(1)

換言すると「大衆の考古学」は、日本史・世界史を、考古学に外在的にするものではなく、内在的にするものである。前者は政治主義、後者は文化主義と言えようか。前者は、考古学そのものを問うことなく、政治に動員する(ヒキマワス)。後者は、考古学そのものを問い、政治も文化に還元する──。

全文を翻刻したいと考えている。

  1. 「見晴台発掘と僕達の考古学─「職人の考古学」↔「趣味の考古学」を止揚し、「大衆の考古学」を創造しよう!─ 」 伊藤禎樹、犬塚康博、岡本俊朗、小原博樹、斎藤宏、桜井隆司、村越博茂、安田利之『名考会と見晴台に関する問題提起─その2』、1972年11月26日、13頁。
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「「大衆の考古学」の具体化な第1歩」

小原博樹の行動と言動および公式の記録によって見晴台遺跡第10次発掘調査を見てきたが、「見晴台と名考会に関する問題提起」をおこなった伊藤禎樹以下8名は、この調査を次のように総括した。名文である。

では、「大衆の考古学」の具体的な第1歩であった見晴台の発掘を見てみよう。発掘期間中ほとんど毎日のように発行した『見晴台発掘ニュース』(No.1~16)は参加した人達に自らが発掘作業の主人公であることの自覚を促し、(=主体性の主張)自らの作業と発掘全体とを正しく把握し、科学的な判断が日常的なできごとの中で発揮できるようにということを編集方針にしていた。この『ニュース』は、いくつかの矛盾をかかえていたことは事実であるが、その編集方針の正しさは、編集・発行作業に従ってゆく人達がかなりの数になったことによって証明されている。このように編集・編集作業・・・従さわった人達はいうまでもなく、発掘参加者の組織化を計り、発掘の科学性を保証する基盤になったことは、いうまでもないことである。同時に、発掘のシステムも、常に徹底して話し合うことを原則とし、経験の多少、年令、学校、男女などの色々の差に関係なく、それぞれうまく発掘作業に参加しうる形態を大衆的に生み出したことを述べておかなくてはならない。作業から自主的な研究活動としての発掘参加へと質的な質的な飛躍を獲得するために、学習会、舌状台地周辺の遺跡見学、踏査が、自主的に企画され、実践されたこともぜひ述べておかなくては、ならないことである。一方、発掘現場への見学者等に対する活動は、どうであったろうか。見学者は、とりもなおさず、遺跡を生活空間の中に持っている地域の住民であり、また、社会的な関心を持って遠くから、わざわざ見学に来た人たちある以上、そうした見学者と発掘参加者との見晴台遺跡の共有化をめざしたのである。その媒介は、とりもなおさず、発掘の大衆的な成果の具体物としての『ニュース』と案内板であった。こうしたことは、遺跡が、お役所の管理や、破壊されるべきものでなく、地域の大衆が、文化的所産として継承し、活用してゆかねばならない重要性と実現の可能性を明らかにしてゆく第一歩であった。こうした毎日の蓄積の集約─さらなる飛躍としてあった8.6現地見学会の圧倒的成功は、発掘現場における、大衆的な民主主義的な発掘の学的成果と、参加者全体の主体的発展の勝利の1つの記念碑的なものである。このような発掘活動を通じてのみ、正しい古代史像を想像することができるのである(1)

  1. 「見晴台発掘と僕達の考古学─「職人の考古学」↔「趣味の考古学」を止揚し、「大衆の考古学」を創造しよう!─」(伊藤禎樹、犬塚康博、岡本俊朗、小原博樹、斎藤宏、桜井隆司、村越博茂、安田利之)、1972年11月26日、12-13頁。
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二つの写真

前回触れた、『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』の表紙・裏表紙(1)の写真は、40年以上にわたり見慣れてきたものである。荒木実、伊藤禎樹、大参義一、丹羽博各氏の姿が見え、私もいる。

ところで、見学会の写真には、公になっているものがもう一つある(2)

▲ 「市民見学会風景」『─第20次記念─見晴台遺跡発掘調査のあゆみ』、名古屋市見晴台考古資料館、1981年7月20日、28頁。

見学会は、この日の午前、午後の2回おこなわれており、アングルの異なる二つの写真が、同じときのものか、別のときのものか、これまで特に気にすることはなかった。

今回、あらためて比較した結果、同じときのものであることがわかった。手がかりは、座る男子生徒a・bと立つ白いワンピースの女性cである。男子生徒dも同一人物と思われ、左の写真では立っているが、右の写真ではaの隣で中腰でしゃがんでいる。場所を移動した、あるいはこれから移動するがゆえの、落ち着かない姿勢と思われる(比較写真参照)。

『─第20次記念─見晴台遺跡発掘調査のあゆみ』を編集したのは、同館職員の岡本俊朗であった。彼の視線が、この写真のどこに注目していたか、とてもよくわかるのである。

  1. 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、見晴台遺跡第10次発掘調査団、1972年12月1日、表紙・裏表紙。
  2. 「市民見学会風景」『─第20次記念─見晴台遺跡発掘調査のあゆみ』、名古屋市見晴台考古資料館、1981年7月20日、28頁。
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見晴台最初の「現地見学会」

『見晴台発掘ニュース』No.10(臨時増刊号)、見晴台遺跡発掘調査団、1972年8月6日、1-6頁。
▲ 『見晴台発掘ニュース』No.10(臨時増刊号)、見晴台遺跡発掘調査団、1972年8月6日、1-6頁。

見晴台遺跡第10次発掘調査で、はじめて「現地見学会」がおこなわれた。1972年8月6日(日)の午前、午後の2回。翌日の『見晴台発掘ニュース』は次のように伝えている。

見学会! 成功のうちに終わる!! 約400人の市民を向えて!!
昨日は、市民に呼びかけて発掘見学会が行なわれました。すでに数日前からこの見学会のために、わたしたちは付近の家々にビラ配りをしたりしていろいろな準備をしてきましたが、その努力の成果があってか、午前・午後2回の見学会にいずれも200人近い市民の参加をかちとることができました。これは、おそらく見晴台はじまって以来の人間ラッシュだったと思います(1)

現地見学会は、いくつかの事業のひとつとしておこなわれた。

発掘期間中、見晴台では、数々の企画を試み実行に移していった。毎日の見晴台ニュースの発行、案内板の設置、作業前後の集会、周辺遺跡の見学会、参加者全員の討論会等は、参加者が見晴台遺跡の性格と調査の目的をできるだけ理解しあい、同時に、発掘を通じて考古学の方法をともに学んでいくための試みであった。さらに、見学者へのニュースの配布と説明、現地見学会なども企画実行された(2)

参加者向けと見学者向けの事業があった。両者を通じて、「見晴台遺跡の保存と活用への一般市民の参加の糸口(3)」を開いていこうとしたのである。

「市民参加」それ自体は、過去の調査でもおこなわれていた。会員非会員を問わず何らかのかたちで名古屋考古学会に有縁の人であれば参加することができた。このことはハードルの高さを言っているのではない。蓬左グループが参加していたし(4)、私も中学生で参加することができた。

しかし、それはあくまで考古学プロパーとその周辺という「内部」にとっての市民参加であり、第10次発掘調査以降求められたのは、「内部」と「外部」すなわち非考古学プロパーとの障壁の撤廃であった。先の現地見学会の報告は、次のように続けた。

薄曇りの空もようとはいえ、風のないむし暑い状態の中で、約30分の大参先生の話に熱心に耳をかたむけ、遺構に目をくばる人々のようすをみて、みなさんはどう感じたでしょうか? なにかみせ物みたいでいやだ!だとか、発掘の邪魔になる!だとか言っていた人もあるようですが、見晴台遺は決してわたしたちだけのものではないのだ!ということを充分考えてほしいと思います(5)

そして、「見晴遺跡はみんなのものだ!と大声で言えるような発掘、さらには史跡公園をきずくために、これからも見学者を暖かく向え、見晴台遺跡を充分理解してもらおうではありませんか(6)」と結んでゆくまで、くどいくらいに見晴台遺跡の開放の意義、方法を説いていた。

いまや発掘調査の見学会は、工程化して、「内部」と「外部」の障壁を隠蔽し、専門権力を固定化するまったき装置である。しかし、見晴台遺跡では、これに対立するものとして始まった。その意味で、『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』の表紙・裏表紙に、見学者と参加者が集合する現地見学会の写真を使用したのは、「社会教育としての見晴台」の正しい表象だったのである。


▲ 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、見晴台遺跡第10次発掘調査団、1972年12月1日、表紙・裏表紙。

  1. 「見学会! 成功のうちに終わる!! 約400人の市民を向えて!!」『見晴台発掘ニュース』No.12、見晴台発掘調査団、1972年8月7日、1頁。
  2. 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、見晴台遺跡第10次発掘調査団、1972年12月1日、6頁。
  3. 同書、6頁。
  4. 「しゃもじ持つ手で土器発掘/蓬左婦人グループ/見晴台遺跡に取組む/発足4年 最高68歳の”情熱”」『朝日新聞』、市内版、1971年8月4日。
  5. 「見学会! 成功のうちに終わる!! 約400人の市民を向えて!!」、1頁。
  6. 同記事、1頁。
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