塚本古墳(1)

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▲ 1911年(明治44)の塚本古墳
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▲ 1985年の塚本古墳
名古屋市守山区上志段味山ノ田に、「塚本古墳」と命名された古墳がある。1995年に調査され、破壊された。その16年後に刊行された報告書は書く。

1995年、区画整理事業にともなう工事用道路建設中に、字山ノ田において古墳が新規に発見され、所在場所の通称から塚本古墳と名づけられた(1)

「新規に発見」とあるのは、1995年当時の名古屋市教育委員会が「新規に発見」したという意味である。

遅くとも1980年代前半までには、古墳の可能性が知られていた。1979年度に守山区の遺跡分布調査を担当した名古屋市教育委員会職員岡本俊朗氏の手控えの名古屋都市計画基本図には、塚本古墳の場所にあたる土地区画に「コフン」と手書きメモが添えられている。地元での聴きとり等で、得られたのであろう。

さらに大日本帝国陸地測量部の地図(2)には、山ノ田の集落と東山の集落の間の水田中に、ケバ線で囲まれたマウンドが描かれており、私たちの注意をひいていた。山ノ田から北西にゆく道は、東山から東にゆく道が、南に逆へ字状に屈曲する箇所で接続するが、そのやや南東、道の東側にマウンドは描かれていて、塚本古墳の場所に対応する。

発掘調査期間は1995年5月10日(水)~19日(金)で、土日閉庁日と雨天をのぞくと、実質5日間の調査であった。報告書には、「発掘調査期間の都合から十分に測量できなかった(3)」の一文が見られるが、正しくは、名古屋市教育委員会の遺跡把握の精度、程度が低かったために、事前に知りえたにもかかわらず見過ごし、工事中に発見、不充分な調査に結果させた、である。典型的な職務怠慢であった。この様式が、天白・元屋敷遺跡破壊や湿ケ遺跡破壊を生み、歴史の里至上主義を形づくってゆくことを知るのは容易だろう。(つづく)

  1. 名古屋市見晴台考古資料館編『塚本古墳』(名古屋市文化財調査報告81、埋蔵文化財調査報告書64)、名古屋市教育委員会、2011年3月28日、1頁。
  2. 二万分一地形図名古屋近傍第七号(共二十二面)水野村』、大日本帝国陸地測量部、1911年。
  3. 名古屋市見晴台考古資料館編、前掲書、1頁。
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なにこれ、歴史の里?

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▲ 『朝日新聞』、1969年5月20日(部分、一部改変、画像クリックで別枠オープン。)※大きな画像

古い新聞切り抜きを見ていたところ、「古墳群に大娯楽施設」の文字の踊る記事(1)が視野に飛び込んできた。ちょうど、「上志段味の古墳群に「歴史の里」という娯楽施設をつくるということもあって(2)」と講演したところであり、余計に印象深く、紹介することにした次第。

市長のコメント、「古墳だけでは人が集まりにくいので、施設をつくるようにした」は既視感がある。歴史の里も集客大前提の施設(ハードウェア)であり、さらに事業(ソフトウェア)も企てられる。基本的には、この市長と同じ思想「古墳だけでは人が集まりにくい」のあることが透けて見える。

「このままほうっておくより、多くの人に見てもらった方が文化財保護の関心も強まるのではないか」とは、皮肉であった。放っておかずに大娯楽施設計画をたてたら、文化財保護運動が起きて、関心が強まったからである。この発想は、意識を高めるために弾圧するというのに等しい。

それはさて措き、放っておいたのは誰かで、同市の文化財保護行政の怠慢であろう。市長としての自己反省がここにはない。歴史の里も、これと基本的に変わらない。放っておかずに歴史の里を作り、文化財保護の関心を強める、というコースである。この場合は、弾圧ではなく、生かす権力となる。

しかし、集客主義、観客至上主義は、演者を酷使する。サーカスなら動物を、歴史の里なら古墳を。視野狭窄的に、近視眼的に、刹那的に、いまこのときのためだけに消尽しようとする。上意下達、自己中心の官僚的な文化財保護は、葬送されてしかるべきである。

「原形保存か観光か」の設問はいかに。歴史の里では、原形保存よりも原形破壊が志向されている。志段味大塚古墳の復元造成然り、東大久手古墳の発掘体験然り。そして、観光である。歴史の里は、「原形保存か観光か」ではなく「原形破壊も観光も」というポストモダン戦略が敷かれていることになる。

記事は、あらためて言うまでもなく、高松市にある国指定史跡石清尾山古墳群が、県、市、民間による娯楽施設開発により危機的状況を迎えていた問題をあつかったもの。石清尾山古墳群守る会が結成されて、全国的な保存運動が展開され、古墳群の破壊はまぬかれ、現在は古墳群を活かした高松市峰山公園が経営されている。ただしそれは、歴史の里のように、古墳群を酷使しはしない。諸施設とは棲み分けられて、しずかに「永遠」の眠りに就いている。

  1. 「史跡 原形保存か観光か/古墳群に大娯楽施設/高松市石清尾山/文化人らは非難の声」『朝日新聞』、1969年5月20日、14面。
  2. 「志段味の遺跡をたずねて」、2015年6月10日。
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狐塚、二ツ塚、冨士塚

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▲ 「227 春日井郡中志段味村図」(部分(1)

1792(寛政4)年の中志段味村絵図には、「狐塚」「二ッ塚」「冨士塚」という、「塚」の文字をもつ三つの字名が見える。このうち、二ツ塚と冨士塚は現在も使われている。狐塚の字名は残っていなかったが、前回の記事「中志段味・湿ケ遺跡の狐塚」に書いたように、実際に塚があり、地元の人のあいだで語り継がれた内容は、古墳の可能性を示唆していた。二ッ塚、冨士塚も、狐塚同様のものだったのではないだろうか。

この地域の古墳は、段丘の末端、縁辺に築かれる印象がある。寺林古墳群もそうであった。しかし、上志段味の勝手塚古墳、山の田古墳、塚本古墳などのように、段丘上の平坦面に築かれた古墳がないわけではない。中志段味の段丘上平坦面には湿ケ遺跡があるが、古墳および古墳群の展開を考えるべきであろう。そうでなければ、古墳、古墳群があったとしても、闇から闇へと葬り去られるばかりである(2)

  1. 「227 春日井郡中志段味村図」『守山の遺跡と遺物 部門展「身近なまちの考古学―守山の遺跡と遺物」展示図録』、名古屋市博物館、1984年1月28日、66頁。
  2. 湿ケ遺跡破壊!
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天白・元屋敷遺跡破壊事件の根源は名古屋市教育委員会にあり

昨日、中日新聞が最初に報道した天白・元屋敷遺跡破壊事件は、公社の問題に焦点化されているが、その根源は、40年以上続く名古屋市教育委員会の文化財行政の構造的欠陥にある。

文化財保護の断絶は、天白・元屋敷遺跡破壊事件が明証する。天白・元屋敷遺跡は、上志段味に西接する中志段味の遺跡で、1979年度の名古屋市教育委員会の遺跡分布調査で初めて確認され、同委員会による発掘調査が数度にわたっておこなわれてきた。区画整理事業に際しては、「埋立保存」する旨同委員会が強弁していた遺跡である。その遺跡が、2010年から翌年にかけて広範囲にわたり破壊された。「埋立保存」の強弁をも裏切る、地山から根こそぎの破壊に見舞われたのである。

事件は、2011年6月13日付の「野田農場ホームページ/農場だより」に「土器」の記事と写真が投稿されて公然となった。筆者は、これをコメント付きリツイートしたのち、同月15日に現地で遺物を実見し撮影する。そして、13日の野田農場のツイートにリプライするとともに、遺物の写真10点をFlickrに投稿した。以後、事業主体と名古屋市教育委員会とのあいだで折衝がはじまり、前代未聞の「遺物回収作業」ほかの調査にいたる。

天白・元屋敷遺跡は、『志段味古墳群』刊行にいたるまでの数年間、数多関係者が繁く過ぎったであろう地区にある。しかもそれは、上志段味の古墳群と歴史社会的に密接な関係が予想されもしてきた。さかのぼれば、名古屋市教育委員会史上初となった遺跡分布調査の最初のひとつが守山区だったのは、志段味・吉根地区の特定土地区画整理事業を想定していたからである。その象徴的な成果が、この遺跡―最初の名称は中志段味A遺跡―の発見であった。それを、根こそぎ破壊したのは、文化財保護の断絶、否定、破壊と言わずして何と言おう。畢竟、『志段味古墳群』は、天白・元屋敷遺跡破壊と一対だったのである(1)

『歴史の里』のおためごかし、天白・元屋敷遺跡破壊事件という現実──。

たとえば、『志段味古墳群』と天白・元屋敷遺跡破壊とが一対であったことが、断絶されたサンプルであることを「歴史の里」に強いるであろう。これが初めてではない。今日の見晴台遺跡の端緒たる1971年の史跡公園計画もまた、1972年の桜本町遺跡破壊、1974年の六本松遺跡破壊と一体であった。文化財保護の厚遇/冷遇という南北問題が、隣接して発生した共通も指摘しておこう。見晴台と「歴史の里」の意味は、冒頭に記した「調査され破壊され尽くした累々たる遺跡」、ひとこと「断絶」に還元されるのである(2)

  1. 犬塚康博「経験と歴史の断絶―『志段味古墳群』の検討」『千葉大学人文社会科学研究』第28号、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2014年3月30日、2232頁。
  2. 同論文、233-234頁。
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八月の思ひいで

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