月の輪古墳発掘60年を記念する

月の輪古墳刊行会編『増補・復刻月の輪教室』、月の輪古墳刊行会、1978年12月1日、表紙。
▲ 月の輪古墳刊行会編『増補・復刻月の輪教室』、月の輪古墳刊行会、1978年12月1日、表紙。

十二月十六日、私は暖い冬の太陽に汗ばみつつ月の輪古墳の前に立った。まる裸に皮をひんめくられた、直径六十四米・高さ十二米の巨人の骸。この日を心に期して暮した二十有余年、私の夢は月の輪古墳の発掘によって実現されたのである。ああ(1)

  1. 赤松啓介「ああ、私の夢が実現された」月の輪古墳刊行会編『増補・復刻月の輪教室』、月の輪古墳刊行会、1978年12月1日、184頁。
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土器を叩き割る

ある夏の見晴台遺跡発掘調査でのできごと。調査も終盤を迎え、残してあった土層観察用畔を撤去することになった。それまでの慎重な発掘から一転して、鍬で掘り崩してゆく作業である。土層中に遺構面があれば注意して検出、確認するが、ここは台地上の遺跡。堆積した土は薄く遺構面も不明なため、いきおい最終遺構面を検出して写真撮影に備えることになる。土層中の遺物に注意して。

このとき小原博樹が土器を叩き割った。「そのような掘り崩し方をしていたら、遺物を壊してしまう」という丹羽博の心配どおりに、小原は土器をまっぷたつに叩き割ってしまったのである。土器をあやめたことに対して、丹羽はむくれていた。小さな破片ではなく、ある程度かたちのある土器だったからであろう。土器に執着する丹羽は、余計に怒っているようだった。小原は、開き直って平然としていた。得意気にすら見えた。高校生と中学校教員という立場ではなく、遺物至上派と考古学批判派との対峙、とでもいうべき闘争をそこに見た。小原は闘っていたのである。

大学時代に考古学を通じて朝鮮語をかじった。それが縁で、運動として参加した見晴台で在日韓国、朝鮮人への差別撤廃の運動を紹介され、いまだに多くの差別があることを知った(1)

「僕は半分獅子に同感です」──私はほまったく小原に同感であった。10次(1972年)、11次(1973年)のいずれかはっきりしないが、「あのあたりのあの方向の畔」という私のぼんやりとした記憶と発掘区の図面から推して、11次のことだったように思う。

岡本俊朗の「こわれたら、くっつければいい(2)」は美談だった。「土器を叩き割る」はそうでないかもしれない。ならば、あえてテロリズムと言おう。土器を叩き割った小原だが、不登校や失踪した生徒によくつきあっていたようだし、在日朝鮮人生徒の教育を考える懇談会も1980年3月発足以降長く続けていた。そういう社会の問題を隠蔽している象徴として、土器すなわち土器を愛でる考古学を感じとっていたのだと私は解する。ゆえに叩き割った。別のことがらを混同しているとして詰ることは容易い。子どもじみていると優等生的に言うことも簡単である。私はアポリアを見る(3)

丹羽博は、高校生のときから地元の学会誌に踏査報告を投稿する考古少年で、考古学を専攻すべく別府の大学に進んだが、若くして亡くなったと聞く。

小原博樹は、去年のきょう、亡くなった。

  1. 小原博樹「韓国、朝鮮問題、差別撤廃運動と岡本さん」岡本俊朗追悼集刊行会編『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記─日本考古学の変革と実践的精神─』、岡本俊朗追悼集刊行会、1985年8月2日、179頁。下線は引用者による。
  2. 片山千鶴子「「こわれたら、くっつければいい」」岡本俊朗追悼集刊行会編、前掲書、229-231頁。
  3. 福岡猛志「「土器をこわす」ということ─岡本さんの想い出─」岡本俊朗追悼集刊行会編、前掲書、257-259頁。
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考古学と社会教育と


▲ 『中日新聞』、1970年3月19日。


▲ 『朝日新聞』、市内版、1971年8月4日。

婦人学級から自主グループが誕生して、講義や体験学習を継続するとは、なんと理想的、模範的な社会教育実践であることか。

考古学と社会教育──。たとえば「考古学と社会教育はいかにあるべきか」という問いを立てることも思いつかないほどに、いまでは自明の両者である。社会教育法-博物館法上の学芸員を流用、濫用して、埋蔵文化財担当職員に充当してきた世俗的事情もあるに違いない。もちろん、そうでない自治体、企業があることは百も承知である。

ところで、名古屋市において、考古学と社会教育の共存が明示的になったのはいつ頃からだろうか。見晴台遺跡発掘調査で概観すると、第9次以前の報告書に「社会教育」の語はなく(1)、第10次のそれから登場する。

見晴台遺跡の調査を、一方では科学的な調査研究の場としていくとともに、他方では多くの市民に支えられた文化活動・社会教育の場としていくことが強く意図されていたからである(2)

これは、名古屋市見晴台考古資料館じしんも引用しており(3)、記念碑的な一文である。これが発掘調査について説くのに対し、次は見晴台遺跡総体に言い及んでいる。

さいわい、見晴台遺跡は史跡公園として保存することが決定され、資料館の建設も予定されて、市民の社会教育と歴史教育の場として活用する方針が明らかにされている(4)

考古学と社会教育の語の存否は、奇しくも発掘調査団団長が吉田富夫の時代(第1~9次)とその後とに分かれるかたちとなった。当の吉田も、史跡公園論や博物館論を披露しながら、そこに「社会教育」の語はなかった。吉田に限らず、考古学関係者の術語に普及していなかったと言ってよいだろう。学芸員有資格者を採用するシステムが登場し、資格を取得することを目的とした個人、世代が登場して、はじめて意識されるようになってゆく。1951年に博物館法が制定され、学芸員の制度が誕生してようやく20年が過ぎる頃のことであった。

そして「社会教育」の語は、従来の考古学関係者には、役人用語ととらえられることも往々にしてあった。さらにこの傾向は、学芸員として行政に内在した考古学研究者にも、こののち散見することになってゆく。これは、ひろく博物館一般に見られる、「研究」と「教育」の対立に通じる問題群、その一端と言うことができるが、別の機会に考えてみたい。

それはさて措き、吉田富夫と蓬左グループ。考古学と社会教育が、たがいをよく知ることがなくても、おおきな物語─たとえば国民国家のような幻想─のもと無自覚にあったからこそ築きえた理想的、模範的関係。とりあえず、そのように記憶しておこう。

  1. 名古屋市教育委員会編『見晴台遺跡第I・II・III次発掘調査概報』、名古屋市教育委員会、1966年3月25日、1-72頁、同編『見晴台遺跡第IV・V次発掘調査概報』、名古屋市教育委員会、1968年3月31日、1-58頁、『名古屋市南区見晴台遺跡第IX次発掘調査の記録』、見晴台遺跡発掘調査団、1971年10月1日、1-13頁。
  2. 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、見晴台遺跡第10次発掘調査団、1972年12月1日、1頁。
  3. 『─第20次記念─見晴台遺跡発掘調査のあゆみ』、名古屋市見晴台考古資料館、1981年7月20日、28頁。
  4. 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、15頁。
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失望の検見塚、希望の検見塚

検見塚がいまのような姿になることは、1969年にはわかっていた。

昭和44年、環状2号線計画道路が検見塚周辺を走ることが判明したため、貝塚周辺地域の試掘調査を愛知県教育委員会が調査主体となり実施した。検見塚周辺には都市高速道路のためのインターチェンジが設けられその中での検見塚周辺地域遺物稠密部分の保存が確定的となったが(1)、(略)

同様のことは、1971年3月、朝日遺跡群保存会の要望書に対する回答でもおこなわれていた。

検見塚周辺については環状2号線計画にともない減失する部分については記録保存をはかり、検見塚は環状2号線インターチエンジ内で保存整備するよう、建設省および町当局と協議を進めている(2)

あくまで保存と言い張るのである。木で鼻をくくったその物言いは、人々を失望させた。

さらには検見塚地区のシンボルともいえる県史跡の検見塚貝塚は残すとはいうものの、インターチエンジというコンクリートで挟まれた隔絶した別天地に仕立てあげようとしている。文化財保護に最も力を入れてしかるべき監督機関がかような態度を既に公表してしまっている事は、私たちを始め研究者、一般識者を落胆させてしまった(3)

失望の検見塚。人々は去り、別の人々が集り、今日の検見塚ができあがった。

ところで、1969年12月と1971年1月にかけておこなわれた前記「貝塚周辺地域の試掘調査」すなわち朝日貝塚予備調査の、調査主任をつとめた吉田富夫は、調査報告で次のように書いていた。

インターチェンジは平面交叉をするよう設計されてはいるが、さしあたり菱形の外縁に連絡道路が開かれるにとどまるというから、菱形に囲まれる全地域が道路面およびその他の何等かの施設に蔽われるわけではなく、県指定史跡である検見塚およびその周辺も、当然原状を変更することなく保存されるはずである。しかしできることなら、検見塚も孤立させてただ車中より望見させる程度にとどめず、四囲の道路を潜るなりして検見塚に近づき、あるいは登れるようにするとか、貝層断面なども地下水の排水を考慮しつつ見られるように工作したいものである(4)

検見塚のゆくすえを、吉田も愛知県から聞かされていたのであろう。しかし、県のように「保存」を言うことはない。「保存されるはずである」という確信のかたちで道理を説くのは、そうはならずに無理が罷り通ってゆく危惧を吉田が抱いていたからに違いない。希望を列記するのもそれ故のことなのである。

繰りかえそう。

しかしできることなら、検見塚も孤立させてただ車中より望見させる程度にとどめず、四囲の道路を潜るなりして検見塚に近づき、あるいは登れるようにするとか、貝層断面なども地下水の排水を考慮しつつ見られるように工作したいものである(5)

「孤立させて」いるではないか。「ただ車中より望見させる程度にとどめ」ているではないか。「四囲の道路を潜る」は果たされている。がしかし、「検見塚に近づ」けなければ画餅である。当然「登れ」などしない。蜆塚遺跡の貝層断面観察施設(1960年)を念頭に置いたかのごとき当時としては先進の「貝層断面なども地下水の排水を考慮しつつ見られるよう」な「工作」もない。どれひとつ実現されていないではないか。吉田の心配していたとおりの検見塚である。

吉田の希望はドラスチックなものではない。吉田のキャリアと良心の賜である。そうした考古学的、教育的配慮すらも許さない状況は、ひとこと暴力である。

希望の検見塚、ただひとつ、初発における──。

朝日貝塚予備調査 1969年12月または1970年1月
▲朝日貝塚予備調査 1969年12月または1970年1月

朝日貝塚予備調査 1969年12月または1970年1月
▲朝日貝塚予備調査 1969年12月または1970年1月

朝日貝塚予備調査 第5地点 1969年12月または1970年1月
▲朝日貝塚予備調査 第5地点 1969年12月または1970年1月

朝日貝塚予備調査 第45地点 1970年1月
▲朝日貝塚予備調査 第45地点 1970年1月

  1. 柴垣勇夫「調査の経過」(奥付なし)(『貝殻山貝塚調査報告』、愛知県教育委員会、1972年)、1頁。
  2. 飯尾恭之『朝日遺跡群の土器』、朝日遺跡群保存会、1971年9月18日、2頁。
  3. 同書、3頁。
  4. 吉田富夫「結言」愛知県教育委員会編『朝日貝塚予備調査報告』、愛知県教育委員会、1970年3月、15頁。
  5. 同論文、15頁。
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検見塚

検見塚 1969年
▲東北東から見る。1969年。

検見塚 1969年
▲東から見る。1969年。

検見塚 2013年4月29日
▲西南西から見る。2013年4月29日。

人びとは去り、風景もまた去った。風景が消失したあとに、しからば、何が残ったのか。『バニシング・ポイント』においては、それは、パトカーであり、ブルドーザーの巨大な鉄の爪であり、ヘリコプターであった。つまりは、〈権力〉であった。風景は死滅し、そして死滅せざる国家が残ったのである(1)

あるいは生権力。

  1. 松田政男『風景の死滅』、田畑書店、1971年10月25日、284頁。下線は原文では傍点。
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