吉田富夫の博物館論

博物館に関する吉田富夫の発言の最初がいつで、それはどのようなものだったのか──。

1969年に吉田は、次のように書いている。

諸外国では、どんな小都市でも、その町の歴史をひと目でわからせてくれる博物館を持っているという。わが国でも最近では案外中小都市がこれを決行しているのに、名古屋にまだそのことがないのは恥ずかしい次第である。また諸外国の教育は、博物館における実物教育が、効果的かつ重要な方法となりつつある。図書を読むだけの知識ですましていたのでは、一向に実力はつかない。名古屋の官、財界も教育界も、みな手を携えて、こうした施設の完備に力を入れたいものだし、社寺など文化財所有の向きも、適宜な方法で展示見学の便を与えるように、考慮を払ってほしいと思われる。博物館施設は本市かねての懸案のひとつであるが、こぞってその実現に協力せられ、一日も早くその活用の可能な日の来るのを待つこととしよう(1)

原始から明治までの名古屋の文化史を、考古学的事実を中心にして著した単著の「むすび」が、博物館であった。

同じ時期、さらに詳しく説いている。

史跡公園が、遺跡保存活用の最良の方途だとすると遺物保存活用のための最善の施設は、やはり博物館ということになろう。
遺物はただ並べて見せればいいというものではない。美術品ならそれ自体の美を鑑賞すればいいのだから、別に手を加える要はない。しかし遺物は出土状態がたいせつな場合も多く、そうした説明図が必要であろうし、使用法を知らせるためには、復元のための加工も必要となろう。要するに当時の生活の状態を知らせるのには、いろいろな工夫と設備が必要なのである。そのためにの設備が完備している場所でなければ、工夫もしにくいと同時に、勉強も不充分にしかできないのである。
この意味では、博物館はまず収蔵庫でなければならないと同時に、先にもちょっと述べた通り、教育の場でなければならない。わが国では図書による教育は非常に盛んで、図書館は普及している。しかし、実物による教育の方が、さらに必要であることは当然のはなしである。単なる物置きか倉庫でしかない博物館さえも少ないであろうに、そのための博物館というのは、一層少ないのが現状である。
外国では常に催しものを行なって、いつも大衆を博物館に引きつけている。静的な物置きにしておかずに、動的に活用し続けているのである。「さわってはいけません」と禁止するのでなく、備品を貸与して自由に研究させるのである。博物館における学習活動ということが、珍しいことではなくなっている。
したがって大衆と博物館との間の関係は、一層緊密である。珍しいみやげを自家に死蔵せず故郷の博物館へ寄贈することを約束して安心する例は、よく見聞きするところである。個人の収集が核をなしてでき上がった博物館もよくあるし、第一どんな中小都市でも、まずその歴史を知らせる博物館のないところはないほどである。
わが国の文化財保存は、古来神社仏閣や上層階級の手にゆだねられて来たと言ってもよかろう。しかし最近では、かなり中小都市でもそれぞれの規模にふさわしい博物館を設けて、土地の歴史を知らせる風が盛んになりつつあるのは、喜びにたえない。民芸館など最も大衆に親しいはずの施設も、方々にできつつある。日本独特のよさがも、土地土地のローカルな味わいが、本当に見直されて来た証拠である。
今後名古屋にできる博物館は、ぜひそうした意義の夢を盛ったものであってほしい(2)

1969年に吉田の博物館論が連続するのは、名古屋に博物館を設置する計画が1968年に行政内ではじまったことを受けているからかもしれない。ほかの名古屋市文化財調査委員は何か発言しているだろうか。過去に接した記憶がない。

さて、吉田の博物館論の特徴は、次の諸点にある。
第一に、史跡公園論と構造化されていることは、別に触れたとおりである。上の記述と総合すると、「遺跡─永久保存活用─史跡公園/遺物─記録保存活用─博物館」となる。第二に、設備→工夫→勉強という三段論法を用いている。設備は博物館、工夫は展示技術であり、これらによって勉強が基礎づけられることになる。ここであらかじめ明らかなように、以後は勉強すなわち教育に引き寄せられて行論されゆく。「教育の場でなければならない」の語は、力強くかつが象徴的である。続く外国例の参照は豊かである。「静的/動的」の二項図式は、昭和初期以来わが国の博物館研究で続けられてきた「死んだ博物館/生きた博物館」のバリエーションである。ステレオタイプとは言え吉田もこの構造的理解を有していたことは、博物館の論理上正しい姿であった。

その吉田の求めた博物館は、1977年に名古屋市博物館として開館する。現実はどうだったか。「常に催しものを行なって、いつも大衆を博物館に引きつけて」はいた。見せ物小屋のように。しかし、1980年の時点でも、「「さわってはいけません」と禁止するのでなく、備品を貸与して自由に研究させる」ことはなかった。「大衆と博物館との間の関係は、一層緊密である」と言えただろうか。いまはどうか知らないが、民芸のジャンルは否定していたから、「最も大衆に親しいはずの」領域は失われていた。

名古屋市博物館はそのはじまりにおいて、吉田の博物館論の水準に達していなかったと言える。それはこの博物館内外における期待や希望が、教育よりも研究に重点があったためと考えられる。そう言えば、吉田の博物館論には研究が不在であった。考古学研究者による博物館論でありながら研究が説かれないのは奇異だが、その所以についてはあらためて考えてみたい。

私事、吉田の博物館論には1970年に接していたが、今回初見に等しかった。当時私が博物館に関心がなかったためである。1990年代以降博物館を主題とするようになってからも、吉田の所論を顧みることはなかった。しかし、強い既読感があった。特に外国例を引くくだり、「第一どんな中小都市でも、まずその歴史を知らせる博物館のないところはないほどである」には、藤山一雄の博物館論(3)を想起したし、「珍しいみやげを自家に死蔵せず故郷の博物館へ寄贈することを約束して安心する例は、よく見聞きするところである。個人の収集が核をなしてでき上がった博物館もよくある」などは廣瀬鎮の『博物館は生きている(4)』的である。吉田が師事した浜田青陵の博物館論(5)、や、さらには棚橋源太郎のそれ(6)も及んでいるに違いない。廣瀬に支持されながらおこなわれた荒木実の博物館づくりも、吉田には親しく存した。吉田の博物館論はどこからきたのだろうか。

吉田亡きあと、入稿済みだった名古屋市内の遺跡を紹介する新聞連載コラムがはじまる。連載最終の100回目も、やはり、博物館で締められていた。

発見された遺物も、また決して少なくない。博物館ができれば、みな展示の機会を待つものばかりである(7)

  1. 吉田富夫著・名古屋市経済局観光課編『名古屋のおいたち─見てまわろう名古屋の文化史─』、名古屋市、1969年9月20日、137頁。
  2. 吉田富夫「埋蔵文化財のはなし─歴史のなぞとその解明─」名古屋市教育委員会事務局総務部調査企画課編『教育だより』昭和45年1月号、名古屋市教育委員会、1970年1月16日、9頁。
  3. 藤山一雄『新博物館態勢』 (東方国民文庫第23編)、満日文化協会、1940年10月20日、など。
  4. 広瀬鎮『博物館は生きている』(NHKジュニアブックス1)、日本放送出版協会、1972年10月15日。
  5. 浜田青陵『考古学』(日本児童文庫54)、アルス、1929年9月5日。
  6. 棚橋源太郎『眼に訴へる教育機関』、宝文館、1930年11月10日、など。
  7. 吉田富夫「遺跡ここかしこ おわりに」『中日新聞』市民版、1972年3月20日
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目で見る名古屋の文化史展

吉田富夫は書いた。

私の収集は、小学校5~6年のころ、コインを親からもらうのを楽しみとすることにはじまる。そして中学に進んで、歴史の時間に、尾張国分寺の跡が矢合にあって、当時の古瓦が出ることを聞いて、実地に臨むと、破片が落ちていて、これを手にしたのが、考古学に足を踏み入れたはじめである。
その後その熱がこうじて、昭和2年に愛知県史蹟名勝天然記念物展覧会が開かれると、その出品物からいろいろな遺跡を知り、実査する日が多くなり、中学を卒業すると親に無理を言って、あこがれの京都帝大で浜田青陵博士の許で学習するようになり、家庭の事情で三年後帰郷すると、間もなく東京の森本六爾氏に知られ、当時新しく発見した西志賀貝塚を発掘調査した結果を、東京考古学会の「考古学」に発表して、同人に推薦された(1)

吉田の考古学のはじまりを知ることのできる、数少ない文章のひとつである。『吉田富夫コレクション(2)』でも引用した。家族、学校、展覧会、大学と、世界が拡大してゆくようすがわかる。事後的に吉田が、そう整理したものであってもよい。説得的である。就中、1927年5月、松坂屋で開催された「愛知県史蹟名勝天然紀念物展覧会」のくだりは、ミュージアム・スタディーズの観点からたいへん興味深い。

いまは、多様なテーマの展覧会が、全国各地で日常的におこなわれている。しかし当時はそうでなく、好むテーマの展覧会に観客が接することは困難だったに違いない。展覧会が、いつどこで開催されるか。つまり、観客の年齢や観客の居住地から会場へのアクセスといった具体的な条件、制約が、観客の人生に正負作用したであろう。結果論とは言え、多感な15歳の時に、自分の住む町で、吉田がこの展覧会に出遭ったのは奇蹟と言うよりほかはない。

卑近で想い起こされるのは、「目で見る名古屋の文化史展」である。1969年10月1日から26日にかけて、名古屋城天守閣を会場にして開催された。主催は、名古屋市教育委員会、名古屋市、名古屋城振興協会、中日新聞、名古屋タイムズ社、愛知県博物館協会。縄文時代から明治までの文物が多数出品された。同展の解説書『目で見る名古屋の文化史展(3)』に稿を寄せる吉田富夫、佐々木隆美、豊場重春、岡本柳英、市橋鐸、林董一、磯谷勇、坪井忠彦、舟橋寛治らのキュレーションによるものであったと思われる。少なくとも考古資料は、吉田のそれであったことは間違いない。

展覧会の光景は憶えていない。吉田が体験したような地理的拡張は、すでに図書などで果たしていたから、展覧会の私に及ぼすところではなかったように思う。「実物を見た」ということに尽きるだろう。その10年と半年後、展示された考古資料の多くを手にしておこなう仕事に就くとは、誰が想像しただろう。

吉田富夫にとっての「愛知県史蹟名勝天然紀念物展覧会」が、私にとっては「目で見る名古屋の文化史展」であった。

  1. 吉田富夫「私の考古学的収集」『集成館パンフレット』No.4、荒木集成館、(1971年6月)、1頁。
  2. 名古屋市博物館編『吉田富夫コレクション』、名古屋市博物館、1982年4月29日、1-62頁。
  3. 名古屋市教育委員会編 『目で見る名古屋の文化史展』、名古屋市教育委員会、1969年10月1日、1-43頁。
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