蛸畑遺跡

名古屋市緑区の蛸畑遺跡を踏査したのは、44年前のきょう。

吉田富夫「緑区鳴海町蛸畑遺跡の位置(1)」に刺激されてのことだったように思う。くわえて、東枇杷島、名西橋と、西区の庄内川沿いを生活圏としてきた10代の私にとり緑区は別世界だったが、1969年夏の第8次見晴台遺跡発掘調査参加を経て、同様に別世界の南区、名鉄笠寺駅まで行動範囲が広がっていたことが、緑区への延長を容易にしたと言える。

かくして名鉄名古屋本線の有松駅で降り、11時から15時頃にかけて歩いた。3箇所で貝殻の散布を見るが、農作業者への聴き取りなどから新しいものではないか、というのが当時の印象である。そのうち1箇所で、条痕のある土器片1点を採集。

ところで、撮影データのない一連の写真がある。蛸畑遺跡踏査時のものと記憶してきたが、今回、当時の都市計画図と比較して、そうであることがわかった。4棟の民家が写真と地図(赤色)とで対応する。現在、民家のある場所は、名古屋第二環状自動車道が通っている。

S48-S52 名古屋市都市計画基本図(一部改変)
▲ S48-S52 名古屋市都市計画基本図(一部改変)

蛸畑遺跡 1970年4月5日 〔2/4〕
▲ 蛸畑遺跡 1970年4月5日 〔2/4〕

  1. 吉田富夫「緑区鳴海町蛸畑遺跡の位置」『名古屋考古学会会報』11号、名古屋考古学会、1969年6月1日、8頁。
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チベット、尾張氏、志段味差別

昨日14日、名古屋市歴史的風致維持向上計画が国の認定を受けた。「名古屋市歴史的風致維持向上計画のあらまし」は次のように書く。

名古屋市の維持向上すべき歴史的風致
名古屋市歴史的風致維持向上計画では、以下の6つを「名古屋市の維持向上すべき歴史的風致」として取り上げています。

  1. 名古屋城と名古屋城下町を舞台に展開した祭礼に見られる歴史的風致
  2. 熱田神宮等に見られる歴史的風致
  3. 尾張氏ゆかりの地、志段味に見られる歴史的風致
  4. 堀川・四間道界隈に見られる歴史的風致
  5. 街道や城下町の周辺地域等に見られる歴史的風致
  6. 大都市名古屋の発展過程に見られる歴史的風致(1)

3に「尾張氏」があるのはなぜか―。

別に、「名古屋は、古くは地方勢力の拠点として、江戸時代は御三家筆頭である尾張徳川家の城下町として、また近代以降は我が国における経済産業の一大拠点として発展してきました(2)」と書くが、言いうるのはせいぜいここまでである。そして、「地方勢力」は中央以外のどこにでも存したから、何も言っていないに等しい。その「地方勢力」は「尾張氏」で構わず、当然のことながら何も言っていないに等しい。それで正当である。それを、「志段味」(上志段味の古墳群)にゆかりあるとするときに不当が生じる。別の論理をもつ、別の領域の事項だからである。

テクストとして見てみよう。6つの項目は「に見られる歴史的風致」を構文としている。これを除くと、

  1. 名古屋城と名古屋城下町を舞台に展開した祭礼
  2. 熱田神宮等
  3. 尾張氏ゆかりの地、志段味
  4. 堀川・四間道界隈
  5. 街道や城下町の周辺地域等
  6. 大都市名古屋の発展過程

となる。そのうえで、今回の認定は「地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律」にもとづくため、場所を示す固有名詞および集合名詞は先験的である。それ以外の形容を省くと、

  1. 名古屋城と名古屋城下町を舞台に展開した祭礼
  2. 熱田神宮等
  3. 志段味
  4. 堀川・四間道界隈
  5. 街道や城下町の周辺地域等
  6. 名古屋の発展過程

となる。

「大都市」はなくても、6の意味は通じる。同様に「尾張氏ゆかりの地」はなくても3の意味は通じる、と行文するところだが、そうはゆかない。「熱田神宮等に見られる歴史的風致」と言うように、「志段味に見られる歴史的風致」と端的には言わないところに、このテクストの本質がある。皮相には、志段味の無名性に来すレトリックなのであろう。3の論法にならえば、2も「日本武尊、宮簀媛、尾張氏ゆかりの地、熱田神宮等に見られる歴史的風致」となるが、そう言わないのは熱田神宮の有名性にあるからとみなせる。

ありていに言えば、志段味をわかりやすくするために「尾張氏」を動員したのかもしれない。しかし、トンデモ考古屋には自家中毒的自明の「尾張氏」も、その世間の外部で流通していなければ画餅である。それゆえに、広報大使OS☆UをしてPRすると言うのであれば、屋下に屋を架す行為であり、倒錯と言わざるをえない。

それはさて措き、「尾張氏」を動員した当事者の主観的意図をこえて存する社会史、精神史に、私たちの注意は自ずと向いてゆく。1963年名守合併後の半世紀余にわたり、名古屋市内にありながら、それゆえの政治・経済・文化における不均等発展を強いられ、やはりそれゆえに現在の特定土地区画整理事業を選択せざるをえなかった志段味。むろん吉根も含む。「名古屋のチベット」という形容を甘受してきた志段味が、今度は「尾張氏ゆかりの地」なのである。

そういえばこの区画整理の宣伝文句、少し前までは「志段味ヒューマン・サイエンス・タウン」だった。それも失敗して「塩漬け土地の志段味」と触れまわるわけにもいかず、一転、地理的文明的辺境から神話時代へと拉されたのである。志段味を「尾張氏ゆかりの地」と名指す、名古屋市教育委員会の精神の奈辺にあるかを知ることができよう。もちろん、政治であることは隠されなくてよい。

3だけに「尾張氏」があるのはなぜか―。この問いを、名古屋市史に記憶して私たちは、近現代志段味の精神史にこれからも立ち会ってゆくのである。

  1. 「名古屋市:名古屋市歴史的風致維持向上計画(暮らしの情報)」、2014年2月14日、http://www.city.nagoya.jp/jutakutoshi/page/0000054494.html(2014年2月14日)
  2. 「名古屋市の維持向上すべき歴史的風致」、2014年2月14日、http://www.bunka.go.jp/bunkazai/rekishifuchi/pdf/nagoya_gaiyo.pdf(2014年2月14日)
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上志段味歴史の里呪いの里

「呪いの人形(1983年4月11日撮影)」深田虎太郎「中世甕棺墓と呪いの人形」『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』創刊号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1985年8月30日、20頁。
▲ 「呪いの人形(1983年4月11日撮影)(1)

31年前、呪いの藁人形に遭遇した。場所は、名古屋市守山区上志段味の東谷山上。尾張戸神社北西側、東谷山中世墓の上に設けられた小建屋のまわりを進んだとき、目の前に人形が突然現れ、私は肝を潰した。生々しかった。

以下は、同道の人による記録。

甕棺墓の時代はともかく祠の東南の角の柱に、呪いの藁人形が多数の釘でしっかりと打ちつけられているのには、すくなからず驚かされてしまった。
N大学I教授の講義を引用すると、アメリカの呪術学者フレーザーの学説によれば、呪術には3種類があり、類感呪術、感染呪術、意志呪術、藁人形などは最後の意志呪術に属するものであると教えられた。のろいを唱えながら暗夜に1人多数の釘を打ちこみ、最後に5寸釘を人形の心臓に当たる箇所に打ち込むのが呪いの藁人形のパターンである。
藁人形の実測値―頭から足の先まで全長19.5cm、足の部分で3cm、手を広げだ幅が13cm、打ち込まれている釘の数―頭部54本、左右の手に14本、胴9本、左足8本、右足9本、それに心臓部に1本大釘が打ってあり、ほとんど人形の全身にすきまなく打ってあるが、釘の深さがまちまちであまり上手な仕上げではないようである。藁は昨年とり入れたときのものか? 古くとも1昨年ではないかと思われた。それによって造られた時期がおおかた推定出来る。
釘の総数95本、発見日時昭和58年4月11日午前11時頃。当日は午前中くもり午後から又雨となる(2)

当時は、誰かが個人的な恨みをはらすためにおこなったものだろうと思ったが、1983年といえば志段味・吉根地区で区画整理事業が具体化していた時期。4地区最初となる吉根の土地区画整理促進区域決定が1983年3月25日、組合設立認可が1984年3月30日であった。個人にとどまらない、社会的な恨みがあったのかもしれないと、いまは思える。人口増とともに増える犯罪、それにともなう警察巡回の増加。2011年9月、台風15号の影響による吉根・下志段味・中志段味の洪水被害・・・。そうでなければよいが。

それにしても、アミューズメント(おかしさ、おもしろさ、慰み、楽しみ、気晴らし・・・)で古墳を掘ってはいけない。
「呪いの人形(1983年4月11日撮影)」深田虎太郎「中世甕棺墓と呪いの人形」『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』創刊号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1985年8月30日、20頁。

  1. 深田虎太郎「中世甕棺墓と呪いの人形」『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』創刊号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1985年8月30日、20頁。
  2. 同論文、19-20頁。
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「古墳発掘体験」に反対する

『中日新聞』第25575号、中日新聞社、2013年12月17日、1面。
▲ 「市民も古墳発掘体験/守山で全国初 整備計画」『中日新聞』第25575号、中日新聞社、2013年12月17日、1面。

12月17日付中日新聞朝刊1面に「市民も古墳発掘体験/守山で全国初 整備計画」の文字が躍った。

片言隻句をとらえての、さまざまな批判が可能である。それらはすべて正しいだろう。悟性的に。どなたかの全面展開を切望する。

では理性的にはどうか。「歴史からなにも学ばない人たちによる、歴史からなにも学ばない人たちの再生産」。そう直観的に仮説し、後考する。それにしても、赤塚次郎以降愛知県のポストモダン考古学の徒花のようで、痛く、ウザイ。

同記事を受けて取り急ぎおこなったツイートは、古い方から順に、以下のとおり。

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吉田富夫の博物館論

博物館に関する吉田富夫の発言の最初がいつで、それはどのようなものだったのか──。

1969年に吉田は、次のように書いている。

諸外国では、どんな小都市でも、その町の歴史をひと目でわからせてくれる博物館を持っているという。わが国でも最近では案外中小都市がこれを決行しているのに、名古屋にまだそのことがないのは恥ずかしい次第である。また諸外国の教育は、博物館における実物教育が、効果的かつ重要な方法となりつつある。図書を読むだけの知識ですましていたのでは、一向に実力はつかない。名古屋の官、財界も教育界も、みな手を携えて、こうした施設の完備に力を入れたいものだし、社寺など文化財所有の向きも、適宜な方法で展示見学の便を与えるように、考慮を払ってほしいと思われる。博物館施設は本市かねての懸案のひとつであるが、こぞってその実現に協力せられ、一日も早くその活用の可能な日の来るのを待つこととしよう(1)

原始から明治までの名古屋の文化史を、考古学的事実を中心にして著した単著の「むすび」が、博物館であった。

同じ時期、さらに詳しく説いている。

史跡公園が、遺跡保存活用の最良の方途だとすると遺物保存活用のための最善の施設は、やはり博物館ということになろう。
遺物はただ並べて見せればいいというものではない。美術品ならそれ自体の美を鑑賞すればいいのだから、別に手を加える要はない。しかし遺物は出土状態がたいせつな場合も多く、そうした説明図が必要であろうし、使用法を知らせるためには、復元のための加工も必要となろう。要するに当時の生活の状態を知らせるのには、いろいろな工夫と設備が必要なのである。そのためにの設備が完備している場所でなければ、工夫もしにくいと同時に、勉強も不充分にしかできないのである。
この意味では、博物館はまず収蔵庫でなければならないと同時に、先にもちょっと述べた通り、教育の場でなければならない。わが国では図書による教育は非常に盛んで、図書館は普及している。しかし、実物による教育の方が、さらに必要であることは当然のはなしである。単なる物置きか倉庫でしかない博物館さえも少ないであろうに、そのための博物館というのは、一層少ないのが現状である。
外国では常に催しものを行なって、いつも大衆を博物館に引きつけている。静的な物置きにしておかずに、動的に活用し続けているのである。「さわってはいけません」と禁止するのでなく、備品を貸与して自由に研究させるのである。博物館における学習活動ということが、珍しいことではなくなっている。
したがって大衆と博物館との間の関係は、一層緊密である。珍しいみやげを自家に死蔵せず故郷の博物館へ寄贈することを約束して安心する例は、よく見聞きするところである。個人の収集が核をなしてでき上がった博物館もよくあるし、第一どんな中小都市でも、まずその歴史を知らせる博物館のないところはないほどである。
わが国の文化財保存は、古来神社仏閣や上層階級の手にゆだねられて来たと言ってもよかろう。しかし最近では、かなり中小都市でもそれぞれの規模にふさわしい博物館を設けて、土地の歴史を知らせる風が盛んになりつつあるのは、喜びにたえない。民芸館など最も大衆に親しいはずの施設も、方々にできつつある。日本独特のよさがも、土地土地のローカルな味わいが、本当に見直されて来た証拠である。
今後名古屋にできる博物館は、ぜひそうした意義の夢を盛ったものであってほしい(2)

1969年に吉田の博物館論が連続するのは、名古屋に博物館を設置する計画が1968年に行政内ではじまったことを受けているからかもしれない。ほかの名古屋市文化財調査委員は何か発言しているだろうか。過去に接した記憶がない。

さて、吉田の博物館論の特徴は、次の諸点にある。
第一に、史跡公園論と構造化されていることは、別に触れたとおりである。上の記述と総合すると、「遺跡─永久保存活用─史跡公園/遺物─記録保存活用─博物館」となる。第二に、設備→工夫→勉強という三段論法を用いている。設備は博物館、工夫は展示技術であり、これらによって勉強が基礎づけられることになる。ここであらかじめ明らかなように、以後は勉強すなわち教育に引き寄せられて行論されゆく。「教育の場でなければならない」の語は、力強くかつが象徴的である。続く外国例の参照は豊かである。「静的/動的」の二項図式は、昭和初期以来わが国の博物館研究で続けられてきた「死んだ博物館/生きた博物館」のバリエーションである。ステレオタイプとは言え吉田もこの構造的理解を有していたことは、博物館の論理上正しい姿であった。

その吉田の求めた博物館は、1977年に名古屋市博物館として開館する。現実はどうだったか。「常に催しものを行なって、いつも大衆を博物館に引きつけて」はいた。見せ物小屋のように。しかし、1980年の時点でも、「「さわってはいけません」と禁止するのでなく、備品を貸与して自由に研究させる」ことはなかった。「大衆と博物館との間の関係は、一層緊密である」と言えただろうか。いまはどうか知らないが、民芸のジャンルは否定していたから、「最も大衆に親しいはずの」領域は失われていた。

名古屋市博物館はそのはじまりにおいて、吉田の博物館論の水準に達していなかったと言える。それはこの博物館内外における期待や希望が、教育よりも研究に重点があったためと考えられる。そう言えば、吉田の博物館論には研究が不在であった。考古学研究者による博物館論でありながら研究が説かれないのは奇異だが、その所以についてはあらためて考えてみたい。

私事、吉田の博物館論には1970年に接していたが、今回初見に等しかった。当時私が博物館に関心がなかったためである。1990年代以降博物館を主題とするようになってからも、吉田の所論を顧みることはなかった。しかし、強い既読感があった。特に外国例を引くくだり、「第一どんな中小都市でも、まずその歴史を知らせる博物館のないところはないほどである」には、藤山一雄の博物館論(3)を想起したし、「珍しいみやげを自家に死蔵せず故郷の博物館へ寄贈することを約束して安心する例は、よく見聞きするところである。個人の収集が核をなしてでき上がった博物館もよくある」などは廣瀬鎮の『博物館は生きている(4)』的である。吉田が師事した浜田青陵の博物館論(5)、や、さらには棚橋源太郎のそれ(6)も及んでいるに違いない。廣瀬に支持されながらおこなわれた荒木実の博物館づくりも、吉田には親しく存した。吉田の博物館論はどこからきたのだろうか。

吉田亡きあと、入稿済みだった名古屋市内の遺跡を紹介する新聞連載コラムがはじまる。連載最終の100回目も、やはり、博物館で締められていた。

発見された遺物も、また決して少なくない。博物館ができれば、みな展示の機会を待つものばかりである(7)

  1. 吉田富夫著・名古屋市経済局観光課編『名古屋のおいたち─見てまわろう名古屋の文化史─』、名古屋市、1969年9月20日、137頁。
  2. 吉田富夫「埋蔵文化財のはなし─歴史のなぞとその解明─」名古屋市教育委員会事務局総務部調査企画課編『教育だより』昭和45年1月号、名古屋市教育委員会、1970年1月16日、9頁。
  3. 藤山一雄『新博物館態勢』 (東方国民文庫第23編)、満日文化協会、1940年10月20日、など。
  4. 広瀬鎮『博物館は生きている』(NHKジュニアブックス1)、日本放送出版協会、1972年10月15日。
  5. 浜田青陵『考古学』(日本児童文庫54)、アルス、1929年9月5日。
  6. 棚橋源太郎『眼に訴へる教育機関』、宝文館、1930年11月10日、など。
  7. 吉田富夫「遺跡ここかしこ おわりに」『中日新聞』市民版、1972年3月20日
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