土器を叩き割る

ある夏の見晴台遺跡発掘調査でのできごと。調査も終盤を迎え、残してあった土層観察用畔を撤去することになった。それまでの慎重な発掘から一転して、鍬で掘り崩してゆく作業である。土層中に遺構面があれば注意して検出、確認するが、ここは台地上の遺跡。堆積した土は薄く遺構面も不明なため、いきおい最終遺構面を検出して写真撮影に備えることになる。土層中の遺物に注意して。

このとき小原博樹が土器を叩き割った。「そのような掘り崩し方をしていたら、遺物を壊してしまう」という丹羽博の心配どおりに、小原は土器をまっぷたつに叩き割ってしまったのである。土器をあやめたことに対して、丹羽はむくれていた。小さな破片ではなく、ある程度かたちのある土器だったからであろう。土器に執着する丹羽は、余計に怒っているようだった。小原は、開き直って平然としていた。得意気にすら見えた。高校生と中学校教員という立場ではなく、遺物至上派と考古学批判派との対峙、とでもいうべき闘争をそこに見た。小原は闘っていたのである。

大学時代に考古学を通じて朝鮮語をかじった。それが縁で、運動として参加した見晴台で在日韓国、朝鮮人への差別撤廃の運動を紹介され、いまだに多くの差別があることを知った(1)

「僕は半分獅子に同感です」──私はほまったく小原に同感であった。10次(1972年)、11次(1973年)のいずれかはっきりしないが、「あのあたりのあの方向の畔」という私のぼんやりとした記憶と発掘区の図面から推して、11次のことだったように思う。

岡本俊朗の「こわれたら、くっつければいい(2)」は美談だった。「土器を叩き割る」はそうでないかもしれない。ならば、あえてテロリズムと言おう。土器を叩き割った小原だが、不登校や失踪した生徒によくつきあっていたようだし、在日朝鮮人生徒の教育を考える懇談会も1980年3月発足以降長く続けていた。そういう社会の問題を隠蔽している象徴として、土器すなわち土器を愛でる考古学を感じとっていたのだと私は解する。ゆえに叩き割った。別のことがらを混同しているとして詰ることは容易い。子どもじみていると優等生的に言うことも簡単である。私はアポリアを見る(3)

丹羽博は、高校生のときから地元の学会誌に踏査報告を投稿する考古少年で、考古学を専攻すべく別府の大学に進んだが、若くして亡くなったと聞く。

小原博樹は、去年のきょう、亡くなった。

  1. 小原博樹「韓国、朝鮮問題、差別撤廃運動と岡本さん」岡本俊朗追悼集刊行会編『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記─日本考古学の変革と実践的精神─』、岡本俊朗追悼集刊行会、1985年8月2日、179頁。下線は引用者による。
  2. 片山千鶴子「「こわれたら、くっつければいい」」岡本俊朗追悼集刊行会編、前掲書、229-231頁。
  3. 福岡猛志「「土器をこわす」ということ─岡本さんの想い出─」岡本俊朗追悼集刊行会編、前掲書、257-259頁。
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考古学と社会教育と


▲ 『中日新聞』、1970年3月19日。


▲ 『朝日新聞』、市内版、1971年8月4日。

婦人学級から自主グループが誕生して、講義や体験学習を継続するとは、なんと理想的、模範的な社会教育実践であることか。

考古学と社会教育──。たとえば「考古学と社会教育はいかにあるべきか」という問いを立てることも思いつかないほどに、いまでは自明の両者である。社会教育法-博物館法上の学芸員を流用、濫用して、埋蔵文化財担当職員に充当してきた世俗的事情もあるに違いない。もちろん、そうでない自治体、企業があることは百も承知である。

ところで、名古屋市において、考古学と社会教育の共存が明示的になったのはいつ頃からだろうか。見晴台遺跡発掘調査で概観すると、第9次以前の報告書に「社会教育」の語はなく(1)、第10次のそれから登場する。

見晴台遺跡の調査を、一方では科学的な調査研究の場としていくとともに、他方では多くの市民に支えられた文化活動・社会教育の場としていくことが強く意図されていたからである(2)

これは、名古屋市見晴台考古資料館じしんも引用しており(3)、記念碑的な一文である。これが発掘調査について説くのに対し、次は見晴台遺跡総体に言い及んでいる。

さいわい、見晴台遺跡は史跡公園として保存することが決定され、資料館の建設も予定されて、市民の社会教育と歴史教育の場として活用する方針が明らかにされている(4)

考古学と社会教育の語の存否は、奇しくも発掘調査団団長が吉田富夫の時代(第1~9次)とその後とに分かれるかたちとなった。当の吉田も、史跡公園論や博物館論を披露しながら、そこに「社会教育」の語はなかった。吉田に限らず、考古学関係者の術語に普及していなかったと言ってよいだろう。学芸員有資格者を採用するシステムが登場し、資格を取得することを目的とした個人、世代が登場して、はじめて意識されるようになってゆく。1951年に博物館法が制定され、学芸員の制度が誕生してようやく20年が過ぎる頃のことであった。

そして「社会教育」の語は、従来の考古学関係者には、役人用語ととらえられることも往々にしてあった。さらにこの傾向は、学芸員として行政に内在した考古学研究者にも、こののち散見することになってゆく。これは、ひろく博物館一般に見られる、「研究」と「教育」の対立に通じる問題群、その一端と言うことができるが、別の機会に考えてみたい。

それはさて措き、吉田富夫と蓬左グループ。考古学と社会教育が、たがいをよく知ることがなくても、おおきな物語─たとえば国民国家のような幻想─のもと無自覚にあったからこそ築きえた理想的、模範的関係。とりあえず、そのように記憶しておこう。

  1. 名古屋市教育委員会編『見晴台遺跡第I・II・III次発掘調査概報』、名古屋市教育委員会、1966年3月25日、1-72頁、同編『見晴台遺跡第IV・V次発掘調査概報』、名古屋市教育委員会、1968年3月31日、1-58頁、『名古屋市南区見晴台遺跡第IX次発掘調査の記録』、見晴台遺跡発掘調査団、1971年10月1日、1-13頁。
  2. 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、見晴台遺跡第10次発掘調査団、1972年12月1日、1頁。
  3. 『─第20次記念─見晴台遺跡発掘調査のあゆみ』、名古屋市見晴台考古資料館、1981年7月20日、28頁。
  4. 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、15頁。
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10・25

1969年10月25日。

そのときはまだ、「目で見る名古屋の文化史展」最終日前日の土曜日でしかなかった。

そのときはまだ、考古学関係の新聞切り抜きのひとつにすぎなかった。

その約2ヶ月前、見晴台遺跡第8次発掘調査の終盤、台地斜面に設けたトレンチで、意気込んで深掘りに汗する人がいた。その人がこの日、平博に突入したということを、わたしが知るのはずっとあとのことであった。

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いゆきかへらふ

1988年にわたしは書いた。

戦後40年以上が過ぎ、考古学を取り巻く状況は大きく変化した。考古学もまた変貌した。都市の再開発とイベント、地上げと地価の高騰。土地をめぐる話題の尽きない昨今である。考古学は、土地に刻まれた歴史を解明する学問であった。土地に深くかかわる考古学はどう移ろっていくのであろうか。この時代も、いつの日か一つの風景として記憶されることになるであろう(1)

文末の「風景」、すなわち展示タイトル「考古学の風景」の「風景」は、松田政男の風景論に依る。松田は、自身が製作を担当した映画『略称・連続射殺魔』(1969年)で、「ただひたすら永山則夫の眼もまた見たであろうところの各地の風景のみを撮りまくっ(2)」た理由について、次のように書いていた。

ひとえに、風景こそが、まずもって私たちに敵対してくる〈権力〉そのものとして意識されたからなのである。おそらく、永山則夫は、風景を切り裂くために、弾丸を発射したに違いないのである。国家権力ならば、風景をば大胆に切断して、たとえば東名高速道路をぶち抜いてしまう。私たちが、快適なドライブを楽しんだ時、まさにその瞬間に、風景は私たちを呪縛し、〈権力〉は私たちをからめとってしまうのだ。だから、情況も、情け無用の状況も、いまの私たちにとってはどうでもいいのだ、とあえて言っておこう。私たちは、風景をさえ超えていないのではないか(3)

この風景論は、わたしのウェブサイト「博物館風景」にも継続した。ちなみに、「博物館の風景」にしなかったのは、同名の書籍がこの世にあり、松田の風景論とは無縁なそれに連なる印象を避けたためである。

先の「考古学の風景」は、江戸時代から1945年8月15日までの「名古屋における発見と調査のあゆみ」であった。戦後論は未発である。後の大須二子山古墳の個別研究(1989-1990年)や、『新修名古屋市史』第1巻(1997年)叙述の途上、期せずしてその一端に触れることはあったが――。

その戦後論に進もうと思う。ついては前回の終点から始めず、わたしを出発点とする。それは、わたし「に敵対してくる〈権力〉そのものとして意識された」「風景」が現前するからであり、わたし自身が戦後論の只中にあるからである。松田政男の言葉を借りれば、こういうことになろう。

内に向っては、ついに不可能性の領域にまで突き抜ける想像力の極限での駆使として、そして、外に向っては、私たちを呪縛する〈権力〉としての風景もすべて密室に変えてしまうまでの強靱な方向性をもって、私たちは、ただひたすら、考え抜かなければならぬのだ(4)

諾。ウェブサイト「考古学の風景」を開始する。

  1. 犬塚康博「考古学の風景」名古屋市博物館編『考古学の風景 名古屋における発見と調査のあゆみ』、名古屋市博物館、1988年3月5日、86頁。
  2. 松田政男「密室・風景・権力 *若松映画と性の「解放」」『松田政男評論集 薔薇と無名者』、芳賀書店、1970年5月10日、123頁。
  3. 同論文、123-124頁。
  4. 同論文、125頁。
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