川辺、海辺のモヨロ貝塚

松本健一『海岸線の歴史』は、次のように書く。

北海道のばあいでも、網走などで貝塚が出てくるのは、川辺ではあるがすこし高台の場所である。そうだとすれば、縄文人にしても、弥生人にしても、必ずしも海岸線の浜辺に住んで生活をしているわけではなかった、といえるだろう(1)

同書のなかでこの節は、わが国の海岸線が変化してゆくのは徳川幕府の政策以降のことで、それ以前はほとんど変化しなかったことを概観する箇所である。

まず、「網走など」と言うとき、網走以外の北海道のどの貝塚を想定しているのかがわからないが、網走に限るとモヨロ貝塚を指しているものと思われる。このことは、この節で著者が例示しているのが、三内丸山遺跡、向ヶ丘貝塚(弥生二丁目遺跡)、加曽利貝塚、大森貝塚など有名な遺跡であることからもうなずける。

ここで、モヨロ貝塚の発掘報告書を見ておくと、遺跡の立地は次のように説明されている。

モヨロ貝塚は、網走川の左岸、河口部の砂州に所在し、オホーツク海と網走川に挟まれた標高約5〜6mの砂丘上に立地する(2)

「砂州」と「砂丘」の両方の表記がある。素直に、砂州と砂丘から成り立つ地理と受け取っておこう。そこは河口であるから、砂州の生成要因は川と海とにあり、砂丘のそれは海にある。砂丘は2列の海岸砂丘で、内陸側の砂丘に遺構の多くが認められると言う。モヨロ貝塚は、そのような川辺、海辺の遺跡である。

『海岸線の歴史』に戻ると、著者は「標高約5〜6m」を「すこし高台」とみなし、そのことを理由にして「必ずしも海岸線の浜辺に住んで生活をしているわけではなかった」ことを解いてゆく。

「すこし高台」は了として、そこは浜辺ではなかったのだろうか、と思うのである。現在のモヨロ貝塚は、汀線から150メートルほど隔てた、標高約5〜6メートルの海岸砂丘に展開している。いま、汀線とモヨロ貝塚の立地する海岸砂丘との間には、海側から砂浜、防波堤、道路、水産加工場、道路がある。モヨロ貝塚が盛行した当時に、防波堤、道路、水産加工場はなかったから、汀線、砂浜、海岸砂丘が続いていたとみなして構わない。

狭義に浜辺は砂浜だが、砂浜と海岸砂丘の土壌の組成に違いはほとんどなく、あるのは形状の違い、高低差である。であれば、海岸砂丘を浜辺と呼ぶことは可能であり、モヨロ貝塚は浜辺にあったと言うこともできるだろう。正確には、浜辺の微高地、である。これに基づいて、「必ずしも海岸線の浜辺に住んで生活をしているわけではなかった」と言うことはできないと私は考える。

なお、「縄文人にしても、弥生人にしても」のくだりについて触れると、モヨロ貝塚は、晩期縄文時代の大洞式土器を最下層に見るのを嚆矢として、そののち続縄文時代の遺構があり、貝塚はオホーツク文化期に形成されている。つまりモヨロ貝塚には、縄文人は居たが貝塚以前のことであり、続縄文人は居たが同時代の弥生人は居らず、さらに貝塚を営んだのは縄文人でも弥生人でもないのであった。

文化史、文明史を志向する著述家、思想家の仕事の細部は、粗くてよいのかもしれない。しかしそれでは、米村喜男衛氏が着手して以降、およそ100年にわたるモヨロ貝塚の調査研究が無に帰しかねず、危険なほどに不当である。貝塚という一点で、向ヶ丘貝塚(弥生二丁目遺跡)、加曽利貝塚、大森貝塚と比較するふるまいも、誤謬の温床となっていた。

かつての、神国日本論への考古学的遺跡動員の不当と誤謬と、ナショナルアイデンティティを標榜する海岸線論へのモヨロ貝塚動員のそれと、どこに違いがあるのだろうかと感じる体験であった。

モヨロ貝塚館のパネルを部分引用。赤丸がモヨロ貝塚(筆者加筆)。手前がオホーツク海。モヨロ貝塚の左側が網走川の河口。右側が北。
  1. 松本健一『海岸線の歴史』、ミシマ社、2009年、90-91頁。
  2. 『史跡 最寄貝塚 平成15〜20年度史跡最寄貝塚史跡等・登記記念物保存修理事業発掘調査報告書』、網走市教育委員会、2009年3月19日、3頁。
Share

マンモスの毛と国指定史跡

「集客をあげるように」「マンモスの毛1本、抜き取り」は、「集客をあげるように」国指定史跡を発掘調査(現状変更)と通じる。

第一に、いずれも資料の現状変更による観光のマネジメントであること。

第二に、前者は日本科学未来館館長の実践、後者は文化庁の実践であり、いずれも国がおおいにかかわる事態であること。

文化財保護や博物館の倫理を損なって商売を優先する態度は、政治的倫理を損なって商売を優先する態度(たとえば不動産屋ドナルド・トランプのそれ)と平衡している。

https://www.asahi.com/articles/ASMDR663XMDRUTIL040.html
https://www.asahi.com/articles/DA3S14305721.html

Share

続々・「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論

名古屋城の石垣が政治化しているが、これとは関係なく「「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論」の3回目。前回前々回から4年近くが過ぎ、旧聞に属すかもしれず、すでに周知されていることも思ったが、紫川以外での刻印石の事例について――。

米野・西日置・北一色・露橋の神社寺院の境内には、印の刻まれた名古屋築城の残石が多数遺存して居り、また、中川運河開鑿の際現小栗橋附近より数十個の印の彫られた名古屋築城の残石が出土している(1)

全文は、次の論文を参照されたい。

坂重吉「笈瀬川及び其附近より出土の名古屋築城の残石」『尾張の遺跡と遺物』第6号、名古屋郷土研究会、1939年7月、原本の頁数不明(『尾張の遺跡と遺物』上巻、株式会社愛知県郷土資料刊行会、1981年12月14日、144–146頁、による。)

名古屋城以外における刻印石には、1987年の岸雅裕氏も、1939年の坂重吉氏も、「残石」という同じ概念を用いていたことになる。約半世紀を隔てて同期する「残石」はナラティヴである。そしてそれらは、ほんとうに「残」であったのだろうか――。

それを物象化するとき、名古屋城学芸員の「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」という倒錯が生まれる。

  1. 坂重吉「笈瀬川及び其附近より出土の名古屋築城の残石」『尾張の遺跡と遺物』第6号、名古屋郷土研究会、1939年7月、原本の頁不明(『尾張の遺跡と遺物』上巻、株式会社愛知県郷土資料刊行会、1981年12月14日、145頁、による。)
Share