マンモスの毛と国指定史跡

「集客をあげるように」「マンモスの毛1本、抜き取り」は、「集客をあげるように」国指定史跡を発掘調査(現状変更)と通じる。

第一に、いずれも資料の現状変更による観光のマネジメントであること。

第二に、前者は日本科学未来館館長の実践、後者は文化庁の実践であり、いずれも国がおおいにかかわる事態であること。

文化財保護や博物館の倫理を損なって商売を優先する態度は、政治的倫理を損なって商売を優先する態度(たとえば不動産屋ドナルド・トランプのそれ)と平衡している。

https://www.asahi.com/articles/ASMDR663XMDRUTIL040.html
https://www.asahi.com/articles/DA3S14305721.html

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続々・「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論

名古屋城の石垣が政治化しているが、これとは関係なく「「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論」の3回目。前回前々回から4年近くが過ぎ、旧聞に属すかもしれず、すでに周知されていることも思ったが、紫川以外での刻印石の事例について――。

米野・西日置・北一色・露橋の神社寺院の境内には、印の刻まれた名古屋築城の残石が多数遺存して居り、また、中川運河開鑿の際現小栗橋附近より数十個の印の彫られた名古屋築城の残石が出土している(1)

全文は、次の論文を参照されたい。

坂重吉「笈瀬川及び其附近より出土の名古屋築城の残石」『尾張の遺跡と遺物』第6号、名古屋郷土研究会、1939年7月、原本の頁数不明(『尾張の遺跡と遺物』上巻、株式会社愛知県郷土資料刊行会、1981年12月14日、144–146頁、による。)

名古屋城以外における刻印石には、1987年の岸雅裕氏も、1939年の坂重吉氏も、「残石」という同じ概念を用いていたことになる。約半世紀を隔てて同期する「残石」はナラティヴである。そしてそれらは、ほんとうに「残」であったのだろうか――。

それを物象化するとき、名古屋城学芸員の「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」という倒錯が生まれる。

  1. 坂重吉「笈瀬川及び其附近より出土の名古屋築城の残石」『尾張の遺跡と遺物』第6号、名古屋郷土研究会、1939年7月、原本の頁不明(『尾張の遺跡と遺物』上巻、株式会社愛知県郷土資料刊行会、1981年12月14日、145頁、による。)
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〔ご案内〕講演「上志段味の古墳群を考える」

瀬戸市東谷山山頂遺跡(1983年4月)
▲ 瀬戸市東谷山山頂遺跡(1983年4月)

次の催しでしゃべります。よろしければどうぞ。

見晴台考古資料館友の会セミナ・志段味の自然と歴史に親しむ会10月例会

テーマ 「上志段味の古墳群を考える」

講師 犬塚康博(志段味の自然と歴史に親しむ会世話人)

日時 10月1日(土)午後2時~4時

会場 名古屋市守山生涯学習センター視聴覚室

要旨 名古屋市守山区上志段味では、古墳時代を通して造墓がおこなわれました。前期の大型前方後円墳を含むことから、その地域(ローカリティ)の造墓だけではない、広域(トータリティ)を背景とした造墓がおこなわれていたのではないかとして世の人の関心をひき、旧藩領程度の「国」つまり「尾張」が幻想されてもきました。

上志段味におけるローカリティとトータリティの二つの項目に関しては、これまでに、(1)二系列として、(2)トータリティにローカリティが従属する関係として、(3)トータリティ一辺倒として、理解されてきています。

今回は、一つに内在するローカリティとトータリティの二項の矛盾の運動として、この地域の古墳時代史を構造的にとらえかえしてみました。これに際して、「墓域」に注目して、方法的に東谷山山峰と東谷山西麓段丘とに分かち、それぞれの造墓集団をしてトータリティ、ローカリティがいかに表象せしめられていったかを追跡しています。その結果、ローカリティとトータリティは複雑に盛衰し、トータリティにおいて上志段味が後景化してゆく理路の一端を知ることができたことなどをお話します。

なお、このテーマ「上志段味の古墳群を考える」は、去年10月例会「長谷川佳隆氏と歴史の里」の続編になります。また、瀬戸市東谷山山頂遺跡の後期弥生土器片の紹介をします。

参考 http://shitashimu.shidami.nagoya/images/20161001.pdf

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