2015年7月

2015年7月26日

塚本古墳(1)

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▲ 1911年(明治44)の塚本古墳
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▲ 1985年の塚本古墳
名古屋市守山区上志段味山ノ田に、「塚本古墳」と命名された古墳がある。1995年に調査され、破壊された。その16年後に刊行された報告書は書く。

1995年、区画整理事業にともなう工事用道路建設中に、字山ノ田において古墳が新規に発見され、所在場所の通称から塚本古墳と名づけられた(1)

「新規に発見」とあるのは、1995年当時の名古屋市教育委員会が「新規に発見」したという意味である。

遅くとも1980年代前半までには、古墳の可能性が知られていた。1979年度に守山区の遺跡分布調査を担当した名古屋市教育委員会職員岡本俊朗氏の手控えの名古屋都市計画基本図には、塚本古墳の場所にあたる土地区画に「コフン」と手書きメモが添えられている。地元での聴きとり等で、得られたのであろう。

さらに大日本帝国陸地測量部の地図(2)には、山ノ田の集落と東山の集落の間の水田中に、ケバ線で囲まれたマウンドが描かれており、私たちの注意をひいていた。山ノ田から北西にゆく道は、東山から東にゆく道が、南に逆へ字状に屈曲する箇所で接続するが、そのやや南東、道の東側にマウンドは描かれていて、塚本古墳の場所に対応する。

発掘調査期間は1995年5月10日(水)~19日(金)で、土日閉庁日と雨天をのぞくと、実質5日間の調査であった。報告書には、「発掘調査期間の都合から十分に測量できなかった(3)」の一文が見られるが、正しくは、名古屋市教育委員会の遺跡把握の精度、程度が低かったために、事前に知りえたにもかかわらず見過ごし、工事中に発見、不充分な調査に結果させた、である。典型的な職務怠慢であった。この様式が、天白・元屋敷遺跡破壊や湿ケ遺跡破壊を生み、歴史の里至上主義を形づくってゆくことを知るのは容易だろう。(つづく)

  1. 名古屋市見晴台考古資料館編『塚本古墳』(名古屋市文化財調査報告81、埋蔵文化財調査報告書64)、名古屋市教育委員会、2011年3月28日、1頁。
  2. 二万分一地形図名古屋近傍第七号(共二十二面)水野村』、大日本帝国陸地測量部、1911年。
  3. 名古屋市見晴台考古資料館編、前掲書、1頁。
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2015年7月19日

野並谷1号墳 〔3〕

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野並谷1号墳は、名古屋市遺跡分布図(1)に掲載されていない。同図は滅失した遺跡も掲載しているため、同図作製までに同古墳が滅失していたことにより不掲載となったのではない。遺跡として、認知されなかったようなのである。

同図作製の担当者は、緑区の遺跡分布調査がおこなわれた1978年当時、名古屋市教育委員会職員の岡本俊朗氏であった。同氏は、名古屋市立桜台高等学校歴史クラブのメンバーであり、野並谷1号墳調査時は同クラブに所属していた。同古墳のことを知っていたはずであり、分布図に同古墳を掲載し得る立場にいた。現に、同クラブが調査し報告した「黒石須恵器窯跡(2)」は、「NN104号(黒石N–1号窯)」として分布図に掲載されている。岡本氏は、野並谷1号墳を古墳とみなしていなかったのであろうか。名古屋市教育委員会または名古屋市見晴台考古資料館に保管されているはずの遺跡台帳が、そのあたりの事情を残しているはずである。

なお私は、津田論文(3)を参照して、『新修名古屋市史』第1巻で次のように書いた。

さらに、古鳴海の谷の奥には、野並谷一号墳と名付けられた全長二五㍍ほどの小規模な前方後円墳があった。盗掘を受けていたが、粘土を埋土とする土壙が平面で確認され、調査者は粘土槨とみなしている。古鳴海の谷は、水利の点などから人間活動が成立する条件をそなえており、古墳がつくられた可能性はある(4)

野並谷1号墳の現在の場所は、名古屋市緑区梅里2丁目24−16あたりに後円部が位置するものと思われる。
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▲ 野並谷1号墳の現在地

  1. 『名古屋市遺跡分布図(緑区)』、名古屋市教育委員会、1979年3月。
  2. 津田素夫「黒石須恵器窯跡」『あゆち』創刊号、名古屋市立桜台高等学校歴史クラブ、1966年3月19日、89–90頁。
  3. 同「野並谷1号墳について」、同書、85–89頁。
  4. 犬塚康博「古墳時代」新修名古屋市史編集委員会編『新修名古屋市史』第1巻、名古屋市、1997年3月31日、431頁。
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2015年7月12日

野並谷1号墳 〔2〕

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野並谷1号墳の調査報告は、以下のとおりである。同古墳に直接かかわる記述は短いため全文を掲出し、これに後続する古墳の一般的説明は省略した。

これも我々の良き先生であるところの飯尾さんが、以前からこの野並地区をくまなく歩いて遺跡をさがしてこられ、幾多の窯跡や包含地などを発見されている。今度調査した古墳もその際に見つけられたものである。その時の話によると、三面を低い山で囲まれた小さな谷に、こんもりと木が生い茂り、ポツンといかにも不自然にあったそうで、さらにその周囲が堀になっていたとさえ思われるような形をし、湿地帯をなしていたそうである。後で調査の為、我々も同行したが、やはり同感であった。ここに書くのは、その時のおおよそのあらましです。調査は、十一月七日・十四日でした。古墳の発掘は今回が初めてなので、大へん興味をそそりました。しかし、発掘というものは、一種の破壊とも言えるため、この貴重な資料には、万全かつ真(ママ)重をきして行ないました。我々の見たところでは察しがつかないのですが、飯尾さんの、どうも前方後円墳らしいとの話を聞くと、なるほど●うなずけるところがあった。ともかく、木の生い茂っているのをスコップでかき分け上に上ってみました。ヨレヨレの服に長グツ、背にはナップサックを背負い、手にスコップを一丁といういわゆる未開地用発掘スタイル?で行ったので、大へん楽をしました。上ってみると、どうも後円部が西向きのようでした。その後後円部中央部付近に、何か土を掘り返したような地層の現われている所があった。これはどうも以前に盗掘をやった跡らしかった。古墳には昔しから盗難におそわれて貴重な副飾品などの遺産がフイになるケースが大へんに多く、特に鎌倉時代には、盗掘ブームさえ巻き起ったそうである。非常に残念な事である。我々は一応その部分にトレンチを50センチ四方程設けた。松などの枝が邪魔をして掘るのに苦労した。そこのところの土は大へん小石まじりでやわらかく、スコップが、サクッ、サクッとはいり予想通りきれいに中央部の重要なところだけ盗掘をした跡だということがはっきりした。これでは手の施しようがないので、遺構がどこまで伸びているか末端部分だけでも調査しようと、トレンチを東に50センチばかり広げた。幸にも、末端部だけは、取り止めることができた。さっそくきれいに掃除をして記録することにした。これは粘土槨といって、後で埋葬について参考資料によってそれに関連したことを書いておくが割竹形木棺を直接土中に埋め外面を全部厚く粘土●包むもので、何年かたって木が腐っても粘土だけが残るものである。(1)

津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
▲ 津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
▲ 津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
▲ 津田素夫「野並谷1号墳について」(挿図)
(つづく)

  1. 津田素夫「野並谷1号墳について」『あゆち』創刊号、名古屋市立桜台高等学校歴史クラブ、1966年3月19日、85–86頁。
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2015年7月5日

「天白・元屋敷遺跡の未来」

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発掘調査が終了し、発掘会社も撤収した翌日の7月2日(木)、天白・元屋敷遺跡の破壊がはじまりました。保存と活用を求める声を無視して、丁寧に丁寧に検出されてきた、中世城館や古代大溝、古代の住居跡群など貴重な遺構がどんどん壊されてゆきます。言葉を失います。

過日、「志段味の遺跡をたずねて」と題して講演することがありました。その際、「天白・元屋敷遺跡の未来」と立項して、私たちが目の当たりにする遺跡破壊とは何なのかについて触れました。その部分の講演原稿を、以下に再録します。

天白・元屋敷遺跡のお話をしてまいりました。最初に申し上げましたように、この遺跡は区画整理のまっただなかにあります。地盤改良で不法に壊されました。そしていまおこなわれている発掘調査は、調整池をつくるための調査です。つまり、調査が済めば、また根こそぎ破壊されてしまうわけです。遺跡のすべてが失われるわけではありませんが、主要な遺構、つまり中世城館や大溝はなくなってしまいます。これをどうにかして守りたいと思いますが、市も教育委員会も区画整理組合も、公社もまったく熱心ではありません。

私たちは、つい最近、イスラム国、イスラミクステートが博物館の陳列品や遺跡を破壊するのをニュースで見聞きしました。少し前、2001年には、タリバンがバーミヤンの石仏を破壊したニュースに接しました。わたしたち日本人も。これと何ら変わらないことを、日々おこなっているのかもしれないと思えてきます。わが国の、わが民族の、貴重な歴史遺産を、この手で破壊しているわけです。

日本人は、彼らのことをあれこれ言える立場にないでしょう。イスラミクステートやタリバンは、イスラムの信仰を背景としていました。明治維新のときの廃仏毀釈も、政治体制の変化に反応した、神道と仏教という宗教にかかわる動きでした。現在のわが国の遺跡破壊は、信仰ではなく、ただ単に金儲け、拝金です。遺跡の未来は、暗黒と言わざるをえません。そう言えば、金儲けのために戦争をしようという動きもただいま急です。しかし、遺跡の保護、文化財と人のコミュニケーションの幸福なあるべきすがたは、平和な世界のなかにしかあり得ません。イスラミクステートもタリバンも戦時下です。明治維新は内戦状態でした。いまは、復元だ木造再建だとにぎやかな名古屋城ですが、天守閣も御殿も、日米のおろかな戦争指導者とそれを支えた両国民のせいで、失われてしまったことを忘れてはならないと思います。でなければ、きっと繰りかえすでしょう。

長くなりました。以上です。ご静聴、ありがとうございました(1)

  1. 「志段味の遺跡をたずねて」の「6.天白・元屋敷遺跡の未来」講演原稿。2015年6月10日。
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