2015年5月

2015年5月31日

明治44年の天白・元屋敷遺跡

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明治44年の地図
▲ 明治44年の地図

今回は、明治44年(1911)の地図(1)で、天白・元屋敷遺跡の一帯を見てみよう。

低地に神社の記号があり、その西方に広葉樹林が見られる。神社の北東一帯は、白抜きで描かれた広い畑地となっている。ふたつの道が段丘上から続き、庄内川堤防のきわで合流している。

この図を都市計画基本図(2)に重ねると、まず、神社は熊野権現の位置に等しく、広葉樹の記号があるため社叢を有していたことがわかる。西方の広葉樹林は天王の位置に重なるが、神社の記号がないところから、このときすでに社地ではなくなっていたものと思われる。広い畑地は、天白・元屋敷遺跡の微高地とほぼ重なる。これは南東まで拡がっており、びぎゃあてんとちゃぱたに想定した微高地に接触してもいる。広葉樹林もまた微高地であり、江戸時代の集落があった場所の一部とみて差し支えない。

多少問題となるのが、道である。明治44年の地図と1972年の都市計画基本図は作製方法がちがうため、厳密に正しく重ならないことは言うまでもない。その上で、まず、諏訪神社からの道は、段丘上ではずれているものの、段丘下で一致するため、当時は境内を抜けて低地へおりてゆくコースだったのかもしれない。引き続き北西方向にゆく道も、こまかくずれるものの大局的には同一コースをとっている。微高地を過ぎてからは、中世城館の北辺に沿って進み堤防下にいたる。

山嶋からの道は、段丘をおりる直前で二手にわかれる。あるいは図がずれているために、段丘の下でわかれたのかもしれない。いずれにしても、都市計画図より南に三叉路がある。東側の道は、土地区画の境界を微妙に沿いながら北へゆき、中世城館の西で折れて進んだ先で、諏訪神社からの道と合流する。

道を問題にするのは、江戸時代の村絵図との関係からだが、特に山嶋から下った付近の理解は今後の検討課題である。念のために、撮影年不明(1974年以前)の空中写真と重ねると、都市計画図と重ねた際の印象を追認することができる。

  1. 『二万分一地形図名古屋近傍第七号(共二十二面)水野村』、大日本帝国陸地測量部、1911年。
  2. 「1:2,500/名古屋都市計画基本図/VII–MD 76–4/中志段味」、名古屋市、1972年、(http://scr.wagmap.jp/nagoya_tokeizu/files/PDF/S44/001_1.pdf)。
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2015年5月24日

狐塚、二ツ塚、冨士塚

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▲ 「227 春日井郡中志段味村図」(部分(1)

1792(寛政4)年の中志段味村絵図には、「狐塚」「二ッ塚」「冨士塚」という、「塚」の文字をもつ三つの字名が見える。このうち、二ツ塚と冨士塚は現在も使われている。狐塚の字名は残っていなかったが、前回の記事「中志段味・湿ケ遺跡の狐塚」に書いたように、実際に塚があり、地元の人のあいだで語り継がれた内容は、古墳の可能性を示唆していた。二ッ塚、冨士塚も、狐塚同様のものだったのではないだろうか。

この地域の古墳は、段丘の末端、縁辺に築かれる印象がある。寺林古墳群もそうであった。しかし、上志段味の勝手塚古墳、山の田古墳、塚本古墳などのように、段丘上の平坦面に築かれた古墳がないわけではない。中志段味の段丘上平坦面には湿ケ遺跡があるが、古墳および古墳群の展開を考えるべきであろう。そうでなければ、古墳、古墳群があったとしても、闇から闇へと葬り去られるばかりである(2)

  1. 「227 春日井郡中志段味村図」『守山の遺跡と遺物 部門展「身近なまちの考古学―守山の遺跡と遺物」展示図録』、名古屋市博物館、1984年1月28日、66頁。
  2. 湿ケ遺跡破壊!
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2015年5月17日

中志段味・湿ケ遺跡の狐塚

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「中志段味B遺跡周辺遺跡等分布図 」
▲ 「中志段味B遺跡周辺遺跡等分布図(1)」(部分)

狐塚は、大字中志段味湿ケ2013番地。

▼野田一三さんの奥さんが、1957年頃にこの土地を購入した際、前所有者が10年程「地租」を滞納していた事が解かり、不審に思って調べられた。
▼それによると、昔「狐塚」と呼ばれたとても大きな塚があって、上志段味の方の人が子供を戒める時に「狐塚に捨てるぞ」と言ったように、昼中でもうっそうとした森だったという。
▼明治年間、県道多治見線の拡張時に、この塚を崩して軌道の盛土にした。この時、「土器や刀や槍(鉄でできていたものは錆びていた)」が沢山出土した。地元では、これは墓ではなく、小牧山の戦の時、武士を棄て百姓になった人達が、武器を隠した場所と考えていた。その後、軌道から外れた部分の土地を字の所有とし、青年会が耕作権を持っていた。そして、ここでお日待ちやその他の祭をしたという。
▼戦後、青年会が実質的に機能を停止した後は、個人が所有?又は借用?していたらしい。
▼出土品は、諏訪神社の社務所にあると聞いていたので調べてみたがそれらしいものは無かったとの事。
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▼江戸時代、1792(寛政4)年の村絵図(財団法人徳川黎明会蔵)には、「狐塚」という字名が見られる。現在はない。
▼1888(明治21)年の「土地整理図」によれば、字湿ケ2013–1番地と2013–2番地にかけて、不整円形の区画が見られる。県道多治見線の軌道予定線が引かれており、破壊直前の図面と思われる。
▼「まず、湿ケの塚は、県道多治見線にかかったため、明治年間に壊されている。その際出土した土器と刀の鍔を、地元の青年団が保管したが、紛失してしまったという(野田実さんの話による)。」(岡本正貴1983 「守山区の古墳」)

【参考文献】
○岡本正貴1983 「守山の古墳」
(『もりやま』第2号 守山郷土史研究会(2)

  1. 『志段味の歴史を見て歩こう!』、志段味の自然と歴史に親しむ会、1984年、13頁。
  2. 同書、12頁。
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2015年5月10日

天白・元屋敷遺跡の「びぎゃあてん」

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▲ びぎゃあてんのマウンド(赤色▲)撮影方向。数字は写真番号と同じ。

連載記事「天白・元屋敷遺跡の範囲」では、名古屋市守山区中志段味字東海道の西半にあたる「びぎゃあてん(弁財天)」について何度か触れた。そこでは、地図と空中写真による検証であったが、若干の地上写真が見出されたため紹介しておきたい。

写真は、耕作地のなかにあった土の高まり(マウンド、写真赤色▲)を多方向から撮影したもので、1985–1986年冬の記録である。このマウンドの性格は不明だが、状況から人工の構築物であることは明らかで、「塚」の可能性を考慮して撮影した。当時、この付近がびぎゃあてんと呼ばれることを知らず、「天白・元屋敷遺跡の範囲」で考察したような認識に到っていない段階での観察のため、マウンド周囲への配慮はおこなわれていない。しかし、偶然おさめられた周囲の景色に、びぎゃあてんのようすをかいま見ることができる。注意されたことを、以下に記す。

写真1:マウンドを南方から見る。撮影場所側の水田に比べて、マウンドの向こうが若干高く荒れ地、畑になっている。左の草むらの奥に字東海道の塚と字宮浦の塚があり、左後方に「うじがみやぶ」のクロガネモチの巨木が見える。

写真2:マウンドを南東から見る。マウンドの左側が水田、右側が畑になっている。左後方に字宮浦の微高地が見える。

写真3:マウンドを東から見る。マウンドの左側が水田、右側が畑になっている。左後方の建物は守山高校。

写真4:マウンドを北東から見る。畑の向こう(南)とこちら(北)が水田となっていて、びぎゃあてんの土地利用は入り組んでいた。正面遠方の建物は守山高校。

写真5:マウンドを北から見る。マウンドのむこう(南)は水田だが、さらにそのむこうは耕起された畝が見え、畑のようである。正面に鉄塔がみえる。

写真6:マウンド付近から南東、字寺林の方面を見る。

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2015年5月3日

続・「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論

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「㉞刻印石」
▲ 「㉞刻印石」(部分)

先の正編で、次のように書いた。

さらに学芸員の言う、「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」は倒錯である。東谷山で刻印石が見つかっても、名古屋城への転用は直接に証明することはできない(1)

以下は、証明できないことの証明である。

刻印石は、名古屋市中区の紫川遺跡の発掘調査で見つかっている。これを出品した展覧会図録は、写真とともに次のように書いた。

㉞刻印石
江戸時代の城下町に流れていた紫川(水路)の護岸の敷石として使われていたもので、名古屋城の石垣に見える刻印に酷似した印が刻まれている。築城時代の残石が利用されたものか。(現中区大須一丁目出土(2)

「築城時代の残石が利用されたものか」とは、疑問形で書く通りにこれは想像であり、刻印石が名古屋城以外で知られていなかった当時の現状を背景に、「城下町・名古屋」という展覧会タイトルに寄せて、名古屋城への想像力を誘ったものと考えられる。このキャプションの執筆者は不明だが、展覧会の主担当は岸雅裕氏であり、厳しい史料批判で知られる研究者であったから、逸脱はしていないとみなしてよい。

事実は、刻印石が名古屋城と紫川遺跡で確認されているということである。展覧会が開催された1987年以後の、発見例があるかもしれない。いずれにしても、「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」というのは明白な虚偽で、名古屋城または紫川への転用が想念される程度なのである。厳密には、前回書いた次のとおりである。

論理的には、名古屋城石垣の石に東谷山の古墳の石であることを証明するものがなければならない。つまり、たとえば楔痕を境にして分かれてしまった石の片方が東谷山に、もう一方が名古屋城にあるような接合資料の確認こそが、明々白々な証拠となる。石の目が接合する場合も含まれるだろう(3)

なお、この刻印石は名古屋市博物館に蔵されている。

  1. 「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論
  2. 名古屋市博物館編『開館10周年記念特別展 城下町・名古屋 江戸時代の町と人 一九八七・九・二十六~十一・一』、名古屋市博物館、1987年9月25日、21頁。
  3. 「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論
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