2015年4月

2015年4月30日

狐塚省蔵忌

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▲ 狐塚省蔵氏(左)と岡本俊朗氏

2006年4月30日逝去。

写真は、『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記』制作の際、狐塚氏から提供されたもの。同書では使用しなかった。裏面に狐塚氏筆注記「(1973年初春か?)/岡山. 総社市三輪. 宮山遺跡にて. /Photo. by山本博利氏」あり。

2015年4月29日

〔備忘録〕 昭和19年夏の和島誠一

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思い立ち、次のようにツイートした。

「ナイマス」はナイマン(奈曼)、「潢河」はシラムレン川、「バアリヌ」はバイリン(巴林)のこと。

2015年4月26日

天白・元屋敷遺跡の塚(6)

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字宮浦の塚(西から見る。1985–1986年冬撮影。)
▲ 字宮浦の塚(西から見る。1985–1986年冬撮影。)

字宮浦の塚。「天白・元屋敷遺跡の塚(2)」の図「天白・元屋敷遺跡の空中写真」の⑤。1884(明治17)年の「地籍字分全図」の1048番地、地目「塚」。(2015年3月1日「天白・元屋敷遺跡の神社跡」参照。)南北に長い高まり。土手のようであった。

2015年4月19日

「名古屋城石垣 古墳の石転用か」異論

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▲ 「第2図 東禅寺第2号墳構造図(1)」(部分)

4月15日、読売新聞(YOMIURI ONLINE)が配信した「名古屋城石垣 古墳の石転用か」について少々。他社の記事があるかもしれないが、取り急ぎこれで。

東谷山の古墳の石室に使用されていた石が、名古屋城築城の際に転用されたという物語は、事実かどうか別として、遅くとも大正の頃には知られていた。

里老云ふ、往時名古屋城を築くに方り、此の地方より石垣使用の岩石を給せり、其の時此等の塚を多くを発掘して其の石槨の岩石を運べり、此れより塚に完全なるもの無しと、一帯の古墳は皆之れを発かれ、槨蓋、及槨側岩の良材は殆んど之れを失ひたり(2)

東谷山ではないが、名古屋市守山区下志段味の東禅寺第2号墳の発掘調査では、横穴式石室の両側の柱石に楔の跡が確認され、次のように報告されてもいる。

後世における石室石材の略取であるが、西柱石は現存する先端部と中央部に楔を水平にうちんこで切りだしをはかった痕跡をのこし、相対していたであろう東の柱石は床面に楔痕のある基部をのこすのみである(3)

ここでは、石材略取の理由にまでは踏み込んでいない。当然であろう。この調査からは証明できないためで、考古学の実証主義が守られたかっこうとなっている。もちろん調査者が、『東春日井郡誌』を知らなかったわけはなく、知識、教養として上の報告の背景にあったことは疑い得ない。

以上は、取り急ぎアクセスできた事例にすぎず、このほかにも多くあるであろう。なぜなら、古墳の石の城の石垣への転用は、フィクションも含めて封建時代、封建遺制の時代の、恰好の「物語」あるいは「ジャンル」としてあるからである。ハイカルチャーの裾野を形成する、サブカルチャーと言い得る。

それは措いて、このような先行の事例がありながら、先行とさほど変わりのないことを、あたかもこの記事のもととなった調査や調査者をもって始まりであるかのように、この記事は報道する。楔の痕跡の大きさに関する時代観は、先行に対する新規性と言えるが、この記事が扱う中心にはなく、また「12㎝以上=慶長期」と「名古屋城」とのあいだには論理の溝があり、状況証拠の域をでない。

さらに学芸員の言う、「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」は倒錯である。東谷山で刻印石が見つかっても、名古屋城への転用は直接に証明することはできない。論理的には、名古屋城石垣の石に東谷山の古墳の石であることを証明するものがなければならない。つまり、たとえば楔痕を境にして分かれてしまった石の片方が東谷山に、もう一方が名古屋城にあるような接合資料の確認こそが、明々白々な証拠となる。石の目が接合する場合も含まれるだろう。

前近代的、郷土的物語が、論理性を欠如したままこのようなかたちで21世紀に露出することは異様であり、ただ単に稚拙なだけかもしれないが、一種の歴史修正主義を感じざるを得ない。「歴史の里」の歴史修正主義については別稿(4)で触れたが、名古屋城もまた罹患していることを知るのである。

先行する調査、研究、人、すべてに謙虚であるように。

以下は、記事の転載。写真は省略した。

名古屋城石垣 古墳の石転用か

名古屋城の石垣に、名古屋市守山区内の古墳の石が転用された可能性が、同市名古屋城総合事務所と市教委の調査で明らかになった。石室の石に近世になって開けられた「矢穴」や、クサビを打ち込んで割られた「矢穴跡」が発見されたためで、総合事務所学芸員の市沢泰峰さんは「このようにして切り出された石の用途は城郭の石垣しか考えられない」としている。

発見場所は名古屋城の北東約15キロの東谷山(とうごくさん)古墳群。昨年までの調査で、崩落し露出した数か所の円墳跡から、1列に並んだ矢穴(長さ12~15センチ)や、矢穴跡のある石が見つかった。種類は花こう岩やせん緑岩で、同城でも数多く使われている。

同城の石垣は1610年(慶長15年)、徳川家康の命令で加藤清正、黒田長政ら西国大名による天下普請で築かれた。高さは天守閣の建つ天守台が約20メートル、その他の石垣も5~13メートル、総延長は約8キロに及ぶ。石は各大名が自前で調達し、採石地は小牧市岩崎山や三河湾沿岸、岐阜県海津市の養老山系、三重県尾鷲市周辺などに広がっている。

古墳から転用したとの記録はないが、同古墳群の周辺で、大規模な石垣造成は名古屋城と犬山城(犬山市)だけ。市沢さんは「犬山城は木曽川沿岸の石材が使われ、可能性が残るのは名古屋城」と指摘している。

大名は自分の石である証拠に、採石地で独自の文様を刻んだ例があり、市沢さんは「今後、古墳周辺で刻印石が見つかれば、名古屋城への転用を証明できる」と期待を寄せる。兵庫県姫路市の姫路城などでは、古墳の石棺、石材の石垣への転用が確認されている。

城郭に詳しい三浦正幸・広島大学教授(文化財学)の話「江戸時代、古墳からの転用は特別なことではない。石を割るなどして集めたのは城郭の石垣用ぐらいだ。矢穴は時代が下るほど小さくなり、長さ12センチ以上なら名古屋城が築城された慶長期と考えられる」
2015年04月15日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

  1. 杉崎章・宮石宗弘・立松宏・伊藤敬行「名古屋市守山区東禅寺第2号墳」『東名高速道路関係遺跡第1次第2次調査概報』、愛知県教育委員会、1965年、6頁。
  2. 『東春日井郡誌』、ブックショップ「マイタウン」、1987年、1075頁(原本:東春日井郡役所編、1923年)。
  3. 杉崎章・宮石宗弘・立松宏・伊藤敬行、前掲論文、7頁。
  4. 犬塚康博「経験と歴史の断絶――『志段味古墳群』の検討」千葉大学大学院人文社会科学研究科編『千葉大学人文社会科学研究』第28号、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2014年3月30日、228-236頁、参照。
2015年4月12日

天白・元屋敷遺跡の塚(5)

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字東海道の塚(西から見る。正面遠方に見えるのは高座山。1985年4月14日、三浦明夫氏撮影。)
▲ 字東海道の塚(西から見る。1985年4月14日、三浦明夫氏撮影。)

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▲ 字東海道の塚(北から見る。1985–1986年冬撮影。)

字東海道、通称びぎゃあてんにあった塚。「天白・元屋敷遺跡の塚(2)」の写真の③と④。字宮浦の塚と近接して3基あったことになる。現在は存在しないが、跡地はあるものと思われる。

2015年4月5日

天白・元屋敷遺跡の塚(4)

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字宮浦の塚(南から見る。1985年4月14日、三浦明夫氏撮影。)
▲ 字宮浦の塚(南から見る。1985年4月14日、三浦明夫氏撮影。)

字宮浦の塚(西から見る。1985–1986年冬撮影。)
▲ 字宮浦の塚(西から見る。1985–1986年冬撮影。)

字宮浦の塚(南東から見る。1985–1986年冬撮影。)
▲ 字宮浦の塚(南東から見る。1985–1986年冬撮影。)

字宮浦の塚。「天白・元屋敷遺跡の塚(2)」の図の
野田農場のビニールハウスの南側農道に接してあった。現在は取り除かれて存在しないが、跡地は残っている。

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