2015年1月

2015年1月25日

天白・元屋敷遺跡の範囲(5)

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さんたんだとびぎゃてんの間の水田
▲ さんたんだとびぎゃあてんの間の水田

(15)以下、拾遺をいくつか。

1)びぎゃあてんとちゃばたの形状は、南北に主軸をもつ前方後円墳を想起させるが、立地する場所、大きさ、形状から、その可能性は低いであろう。

2)ひがしたんぼは、びぎゃあてんとほぼ平行して弧を描いている。これは、北の方からの旧河道跡らしく、上志段味の字安河原から続くようにも見える。

3)さんたんだの南、びぎゃあてんとの間で、東西に細い水田が見える。これは、さんたんだみぞに関係しているものと思われ、水路に沿って水田が拡張されたか、ひがしたんぼの旧河道に関連する洪水で、さんたんだみぞの場所が決壊して水が西進したことも考えられる。このことは、ちゃばたの南で、東西に細長く水田が入り込む地形にも言い得る。

4)ちなみに、さんたんだの南、びぎゃあてんとの間は、志段味の自然と歴史に親しむ会などが主催して6月頃に開催する「田んぼで遊ぼう会」で、田植えをする水田のある場所である(写真)。

2015年1月18日

天白・元屋敷遺跡の範囲(4) ─ 字宮浦考

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天白・元屋敷遺跡の範囲(2014年~20115年推定)
▲ 天白・元屋敷遺跡の範囲(2014年~20115年推定)

(14)前回までの検討で、天白・元屋敷遺跡の範囲は、上図のように推定されることになった。赤色に塗ったところはあきらかな「畑」、茶色に塗ったところは微高地(字東海道の推定分を含む)、橙色に塗ったところが字元屋敷の居館跡である。検討が一段落したところで、今回はそれにともなう問題について考えてみたい。

字宮浦(東半)の、「いどのもと(井戸の本)」「つかのにし(塚の西)」「のぐろ」「つじのまえ(辻の前)」一帯の水田は、びぎゃあてんのように土が削り取られたものかもしれないが、その積極的根拠が見出せないため、もとからの低地だったと理解しておきたい。その上で、字宮浦を考えてみよう。

野田美幸は、「宮前はお宮の前と字を見れば分かりますが、宮浦だけは変だと思いました。浦が表裏の裏ではないのです。バス会社の人が、富士塚のふじを富士山の冨士ではなく、藤の花の藤と間違えたように、これも間違いだと私は思いました(1)」と書いていた。字宮前、字宮浦の「宮」が、かつて存した熊野神社を指していると、野田は考えたようだ。しかし字宮前の区域は、段丘下の低地だけでなく段丘上にもわたり、現在の諏訪神社も含むため、諏訪神社の前という意味も否定できない。その場合、字宮浦の「うら」は、諏訪神社の裏とはならなくなる。

そこで、字宮浦を次のようには考えることはできないだろうか。つまり、「陸地が湾曲して湖海が陸地の中に入り込んでいる地形を指す。特に浦・浜は、前近代において湖岸・海岸の集落(漁村・港町)を指す用語としても用いられていた(2)」の「浦」でよいのではないか、と。

その理由の第一は、自然地理的に字宮浦の東半分は低地であり、東半とびぎゃあてんに挟まれて「陸地の中に入り込んでいる地形」であった。第二は、人文地理的に、天白・元屋敷遺跡の発掘調査で中世の川湊がクローズアップされていることがあげられる。この「陸地の中に入り込んでいる地形」が、中世の川湊そのものではないとしても、時期がくだり、川湊は衰退、規模も縮小し、かろうじて神社に附属して営まれていた港、つまり「宮浦」なのではないかと考えられるのである。

敗戦後のころまで、中志段味の江畑の集落には複数の船頭がいたことがわかっている(3)。中志段味低地に集落があった江戸時代には、必ずや多くの船頭がいたはずであり、彼らの船が停泊し、係留し、出入りする港のあった可能性は、きわめて高いと言える。

ところで、川や港、入り江の遺跡を考えると、微高地だけが遺跡ということにはならなくなってくる。遺跡の可能性は、低地にもおよぶ。今回考察した、字宮浦東半の低地が該当する。天白・元屋敷遺跡は、さらに広大な範囲においてとらえられなければならず、そのための保存と調査がテーマになるだろう。

  1. 野田美幸「中志段味の地名調べ」『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第31号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1992年6月10日、9頁。
  2. 「浦 – Wikipedia」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6(2015年1月11日)
  3. 野田義光「庄内川と船頭─水運と「大日渡し」」『志段味の自然と歴史を訪ねて』創刊号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1985年8月30日、26-28頁。
2015年1月12日

天白・元屋敷遺跡中世居館雑感

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天白・元屋敷遺跡中世居館の空中写真
▲ 天白・元屋敷遺跡中世居館の空中写真

1月10日の説明会で配布された資料を見ると、中世居館の周溝南辺は、東辺から直角ではなく、鈍角に曲がり、地籍図や空中写真に見えていたようすと一致する。その溝が、さらに北方へ折れ、西に折れる点も同然である。この結果は、地籍図、空中写真のようすを積極的に参照してよいことをうながしている。

これにもとづくと、中世居館の南西に注意がゆく。空中写真によると、前にも触れたように小さい区画(黄色い点線で囲った部分)が見える(1)。これについては、志段味城にあったと伝えられる、二つの曲輪のうちのひとつを想定したが(2)、その場合、資料の図に記載された左側の「出入口?」は、曲輪間のそれだったことになる。

さらに、その南にも小さい区画(緑色の点線で囲った部分)が感じられる。これの南辺は、東にある熊野神社跡の南辺(白い点線で囲った部分)の延長線上にあり、自然的あるいは人文的な何らかの関係を訴えているようである。そして、居館南辺と両者のあいだの一帯を、どう理解するかも課題になってくる。なお、北側の区画(黄色)との境界はよくわからない。

発掘調査すればわかることも多く、わかってあたりまえだが、発掘調査をしなくても、地表面で観察される事実の少なくないことに、あらためてに気づかされる。いまもむかしも、私たちの想像力が問われているのだろう。それは措いて、よく遺されてきたことに感動する。遺してきたのは、大規模ではない農業などこの地域の人びとの生業であった。

  1. 天白・元屋敷遺跡の中世居館は志段味城である〔補訂〕」http://archaeologyscape.kustos.ac/2014/12/21/
  2. 犬塚康博「天白・元屋敷遺跡考」、2頁。(新ウィンドウまたはタブで開く)
2015年1月11日

天白・元屋敷遺跡の範囲(3)

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「中志段味の地名調べ」(部分)
▲ 「中志段味の地名調べ」(部分)

前回は、地形、地名から考察した。今回は、水路の検討から進める。

(6)中志段味低地のおもな水利は、北方、野添川からの取水と、東・南方、段丘崖の湧水とに負っている。字東海道周辺には、野添川からの「さんたんだみぞ(三反田溝)」「だまみぞ(玉溝)」が東西方向にながれ、両水路を南北につなぐ「なかみぞ(中溝)」が3条見られる。それぞれ仮に、東のなかみぞ、中のなかみぞ、西のなかみぞと呼んで見てゆくと、東のなかみぞは構造がしっかりしており、字一本木と字東海道との字界と重なる。西のなかみぞも、字東海道と字宮浦との字界であり、びぎゃあてんとちゃばたの西側を流れる。中のなかみぞは、びぎゃあてんとちゃばたの東側を流れる。西と中のなかみぞは、びぎゃあてんとちゃばたの東西両側を流れており、もとあった微高地に沿っていたものと考えられる。なお、中のなかみぞの途中で、2条ほど短い水路が西側に派生している。おそらくびぎゃあてんやちゃばたの微高地の土を削り取り水田化したのち、導水のために新設さた水路と見られ、びぎゃあてんやちゃばたの旧状とその開発のようすが想像できる。

(7)西と中のなかみぞにはさまれた、びぎゃあてんとちゃばたの部分が微高地であった可能性が大きく浮上してきたところで、それの南と北はどこまで続いていたかが問題となる。北側は、現在、野田農場のトマトハウスやライスセンターのある畑地があり、さらに天白・元屋敷遺跡の北端に接続してゆく。

(8)南側は、北側のように明瞭ではないが、東方から「ちょうげんだみぞ(長玄田溝)」、だまみぞ、なかみぞ3条が合流して1条になった水路が、南へ蛇行する箇所に注意がゆく。ここには、「中志段味の地名調べ」の図によると、地番をもつ道路のような細い区画(①、黄色い部分)も沿っている。このような形状を描く水路や道路は、経験上地形に制約されてできたケースが多い。

(9)この図に限っても②③④がそれに該当し、字宮浦西半の微高地の東縁に沿っている。③は細長い塚状であり、④は、「みやためさのたんぼ(1)」と呼ばれる細長い異形の水田であった。

(10)以上から、①が沿う水路の北側に、微高地の存在が示唆されていると言える。そこには、「彡」状の土地区画が見え、概して他と区別されてひとまとまりを呈しているのも見て取れる。ここを、びぎゃあてんとちゃばたの微高地の南端と考えたい。

(11)大局的に見ると、字東海道(西半)の微高地は、びぎゃあてん・ちゃばたを中心にして南北に三日月形の弧を描くように認められる。これは、西側の天白・元屋敷遺跡の微高地の東端の弧線にも大略平行する。

(12)びぎゃあてん、ちゃばたの微高地が、江戸時代のころに集落だったかどうか、にわかにはわからない。考古学的な遺構・遺物が、求められるところである。字天白、字宮浦(西半)の微高地より遺存状況がよくないのは、比較的古い時期に形成された微高地が、古いゆえに改変を多く受けたためではないかと思われる。あるいは、集落の中心が字天白、字元屋敷、字宮浦(西半)にあり、びぎゃあてんそのが周縁だったため、耕地化の進行が早かったことも考えられる。

(13)これを裏付けるかのようにして、びぎゃあてん、ちゃばたの一帯は、2011年から2012年の工事で失われてしまった。さんたんだ以北は、野田農場の営農によって守られている。

(つづく)

  1. 野田義光「中志段味にあった『神官』─水野光雄さんの先祖」(連載(5)中志段味・見たり聞いたり」志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会編『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第5号、1986年6月1日、26頁、編集室(犬塚康博)「みやためさの田んぼ」、同書、27-29頁。
2015年1月4日

天白・元屋敷遺跡の範囲(2)

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「都市計画基本図」(部分)
▲ 「都市計画基本図」(部分)

「中志段味の地名調べ」(部分)
▲ 「中志段味の地名調べ」(部分)

前回、遺跡範囲が拡大すると推定した根拠を、以下に記す。

作業には、図を2点使用した。まず、「都市計画基本図(1)」は、東半分に昭和48-52年の図、西半分に昭和44-47年の図を用いた。異なる時期の図を使用したのは、東半分は図が精緻であること、西半分は守山高校設置以前の状況がわかるためである。明らかに「畑」であることがわかる部分のみを、橙色で塗りつぶした。等高線を赤色、水路を水色、道をピンク色でなぞった。

野田美幸「中志段味の地名調べ(2)」は、いわゆる「土地宝典」を原図にしているが、書誌情報が現在不明である。守山高校の記載があるため、1973年以後と思われる。水路を水色、道をピンク色、字界を橙色でなぞった。黒い太い線は、図本来のもので水路である。

(1)字東海道が東垣内を改めた名であることは周知の事実だが、「東の集落」という直訳に大過なければ、これは西方から名づけられたことになる。東海道の西には字天白、字宮浦(西半)、字元屋敷の集落、いわゆる天白・元屋敷遺跡があり、ここから見た「東の集落」として矛盾はない。

(2)字東海道の北西端に「びぎゃあてん」と呼ぶ場所がある。野田は、これに「弁財天」の字をあてている。また、びぎゃあてんに南接する場所は「ちゃばた」と呼ばれ、「茶畑」の字があてられている。

(3)「都市計画基本図」には、びぎゃあてんとちゃばたの一部に、地目が畑の区画がある。字東海道ではここだけであり、かつて微高地のあったことをうかがわせている。茶畑の表記が正しければ、微高地であったことの傍証となる。

(4)標高29mの等高線は、びぎゃあてんの場所で、不規則な形をして入り組んでいる。これは、南側から土が削り取られたようすを示すものであり、このこともまた、この一帯がもとは微高地だったことを暗示している。

(5)びぎゃあてんの西方には、字天白のほか「うじがみやぶ(氏神薮)」「てんのうばた(天王畑)」など、びぎゃあてん(弁財天)も含めて、精神文化にかかわる名が複数見える。また、字元屋敷は、ストレートに住宅の存在をあらわし、「ごうはた(郷畑)」「ごうた(郷田)」も同然である。しかし、びぎゃあてんの東方、字寺林の段丘崖までのあいだに見られるのは、田、溝、池など、生産にかかわる物質文化の名称ばかりであった。これらのことから、びぎゃあてん以西に集落があり、びぎゃあてん付近がその東限だったことを示す。これは、(1)で見た東海道の名の理由にも通じてもいる。

(つづく)

  1. 名古屋市都市計画情報提供サービス」(新ウィンドウまたはタブで開く)
  2. 野田美幸「中志段味の地名調べ」『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第31号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1992年6月10日、9-11・14頁。(新ウィンドウまたはタブで開く)
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