2014年9月

2014年9月28日

名古屋・中志段味の文化的ジェノサイド

Posted by fische in Site, Theory

9月22日、「計画提案に係る都市計画の素案の閲覧(地区計画(中志段味地区計画))(1)」がネットアップされた。これと同時に、当該地区で本件印刷物の各戸配布もはじまったようである(2)

素案は、「計画書」(6頁)、「総括図」(1頁)、「計画図」(1頁)(図1(3)参照)、「理由書」(2頁)から成り立っていて、「計画書」と「理由書」がテキスト、その他がイメージである。逐一の紹介は省くが、文化財保護の立場から結論を先取りすると、その特徴は「天白・元屋敷遺跡の抹消」にある、と言うことができる。

「計画書」は、次のように結語、自画自讃する。

以上のように、本提案の内容は、中志段味地区の生活圏の拠点の核となり、にぎわいの創出につながる計画であり、建築物等に関する必要な制限を一体的に講じることにより、周辺へ配慮した良好な都市環境の形成が図られたものであり、さらに防災等の多様な地域課題に対して取り組む計画であることから、都市環境の整備と良好な地域社会の形成に寄与しつつ都市機能の増進が図られることから、本計画は妥当であると考える(4)

典型的な役人-官僚の文書である。住宅都市局あたりによる作文であろう。それはさて措き、「生活圏の拠点の核」「にぎわいの創出」「建築物等に関する必要な制限」「周辺へ配慮」「防災等の多様な地域課題に対して取り組む」が、素案で繰り返し唱えられるキイワードである。このうち「周辺へ配慮」が、文化財保護の立場に関係する。

理由書は、次のように「周辺」を定義している。

本提案区域の周辺には農地があり、西側には守山高校、東側には住宅団地、南側には諏訪神社が位置している。また本提案区域の南側に流れている「才井戸流」と呼ばれる小川には、夏にホタルが見られる他、希少な動植物が生息している(5)

最初に、この文章のトリックを観ておく。西・東・南がありながら、北のないことに気づく。北側には何があるか。野田農場がある。つまり、「本提案区域の周辺には農地があり」とは、北側の野田農場のことであった。現在、野田農場以外に営農する農地は存在しない。にもかかわらず、「本提案区域の周辺には農地があり」という曖昧な表現で野田農場を隠蔽するところに、素案のトリックが存在する。

本題に入ろう。北側にあるのは、野田農場だけではない。天白・元屋敷遺跡がある(図2(6)参照)。野田農場からその西側にかけて、この遺跡の北半分が広がっている。素案は、「周辺」概念において、野田農場だけでなく、天白・元屋敷遺跡には一言も触れず隠蔽するのである。才井戸流の──1980年代以降人工放流されたホタルの末裔は論外だが──「希少な動植物」が言い立てられるのであれば、天白・元屋敷遺跡の稀少性はそれ以上に注意、揚言されなければならない。この不当な扱いは、「天白・元屋敷遺跡の抹消」を意味する。すなわち「文化的・宗教的な集団の文化的・宗教的・歴史的な存在等の全部または一部を破壊する意図をもって、1つの文化的・宗教的集団の構成員または文化的・宗教的・歴史的な資産に対して行われる行為(7)」、文化的ジェノサイドである。

素案の提案者である名古屋市中志段味特定土地区画整理組合が、天白・元屋敷遺跡を知らないはずはない。十二分に知っている。過去、同遺跡発掘調査の原因者であったし、2010-2011年には同遺跡の大規模破壊を実施し、名古屋市教育委員会から叱責を受け、始末書を提出する事件も起こしている。文化財保護のコンプライアンス欠如甚だしいその様子からは、素案に天白・元屋敷遺跡を記載しないのもうなずける。しかしそれは、無法者の暴挙以外のなにものでもない。

ひょっとして、2010-2011年の破壊は、調査費用負担を逃れるための計画的なものだったのだろうか。名古屋市当局の後ろ盾も考えられる。それはそうだろう。天白・元屋敷遺跡を抹消した素案を受理する名古屋市である。教育委員会への始末書提出は、予定された茶番劇だったのかもしれない。現実は、そのように思わせるに足るものがある。

閑話休題。天白・元屋敷遺跡は南半分を破壊されたが、北半分は遺存している。国民の共有財産である遺跡の保護・活用をめざすのは、文化財保護法の精神からして当然である。素案はこれを明記し、行政はそれを指導しなければならない。それをせずに、天白・元屋敷遺跡の北半分をも破壊し尽くすつもりであるならば、ユニー株式会社、名古屋市中志段味特定土地区画整理組合、名古屋市当局による文化的ジェノサイドに、私は心の底から反対する。

「計画図」
▲ 図1 「計画図」(クリックで拡大)

「計画図」と「名古屋市遺跡分布図(守山区)」の合成図
▲ 図2 「計画図」と「名古屋市遺跡分布図(守山区)」の合成図(クリックで拡大)

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▲ 図3 「名古屋市遺跡分布図(守山区)」、名古屋市教育委員会、1985年3月、表面(部分) 〔1-65下寺林古墳(寺山2号墳)、1-66上寺林古墳(寺山1号墳)、1-67志段味城跡、1-68天白元屋敷遺跡、1-69湿ケ遺跡〕

  1. 住宅都市局都市計画部都市計画課総括係作成担当「名古屋市:計画提案に係る都市計画の素案の閲覧(地区計画(中志段味地区計画))(事業向け情報)」、2014年9月22日、http://www.city.nagoya.jp/jutakutoshi/page/0000063205.html、(2014年9月22日)。
  2. 野田留美「都市計画提案に関するお知らせ。 について」『愛知県議会議員 野田るみホームページ ブログ』、2014年9月22日、http://www.nodarumi.com/mailbbs.php、(2014年9月22日)、同「都市計画提案について、の続き。」同前。
  3. 「計画図」住宅都市局都市計画部都市計画課総括係(作成担当)、前掲書、http://www.city.nagoya.jp/jutakutoshi/cmsfiles/contents/0000063/63205/keikakuzu.pdf、(2014年9月22日)。
  4. 「計画書」、同書、http://www.city.nagoya.jp/jutakutoshi/cmsfiles/contents/0000063/63205/keikakusyo.pdf、(2014年9月22日)。
  5. 「理由書」、同書、http://www.city.nagoya.jp/jutakutoshi/cmsfiles/contents/0000063/63205/riyuusyo.pdf、(2014年9月22日)。
  6. 「計画図」、前掲書、と「名古屋市遺跡分布図(守山区)」、名古屋市教育委員会、1985年3月、表面(部分)、を合成して作成。
  7. 「ジェノサイド – Wikipedia」http://tinyurl.com/mracp6k、(2014年9月22日)。
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2014年9月21日

蛸畑遺跡〔7〕

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蛸畑遺跡の「物語」は、少なくとも次の三項から成り立っている。

  • 近世の文献に記述があること。
  • 貝が出土すること。
  • 吉田富夫が関与すること。

この構造は、蛸畑遺跡が最初ではなかった。吉田が沢観音堂貝塚址(1)として紹介したものをはじめ、類例はいくつかあるが、西志賀貝塚と御塚を以下に見よう。

西志賀遺跡については、綿神社の西方に「貝塚」と呼ぶ場所のあることが『尾張名所図会』後編に記されていて、そのことを吉田が紹介している(2)。この報告以降に西志賀貝塚の前期弥生土器研究で、吉田が考古学界の第一線に登場していったことにあきらかなように、西志賀貝塚は吉田にとって記念すべき遺跡であった。紅村弘が書いた「この名所図会に記載あることは、吉田氏の父君が見出されたものという(3)」ことも考慮すると、吉田には格別の意味を持つ遺跡であったに違いない。

御塚は、『金鱗九十九之塵』巻九十に記述があること、貝が出ること、そして吉田富夫が熱心に調べていた。これに関連して、「昭和三十九年夏、沢上中学南西隅にプールを設けたとき、大量の貝殻が出たことを、同校卒業生で桜台高校生であった岡本俊朗君(今は岡山大学で考古学専攻の学生)から聞き、もしまた将来何か工事が行なわれるようだったら知らせてほしいと頼んでおいたところ、昭和四十一年七月体育館等増設工事のこと聞き、早速六日に実査した」が、江戸時代の貝塚だったため、「私はひそかに縄文の、それも古い時期のものを期待していたのに―(4)」と、落胆を隠さない吉田であった。

このように見来たるときに、蛸畑遺跡は、吉田富夫が見た最後の夢だったと言える。その最初は、言うまでもなく、正夢として始まった西志賀貝塚であった。

そして、吉田の夢をなぞる生徒たちがいた。御塚に岡本俊朗が、蛸畑遺跡に私が。構造的であるがゆえに、吉田じしんが御塚や蛸畑遺跡の虜になったように、生徒たちにもわかりやすかったのだろう。

私は、蛸畑遺跡を踏査したのちじきに堀越町遺跡に遭遇する。この遺跡は、西志賀貝塚に近く、吉田は船人夫町貝塚(5)と呼んでいた。西志賀貝塚が所在する地の一方の字名「船人作」と酷似するこの名の地の遺跡に、吉田が西志賀貝塚の夢を投影していたとしても不思議ではない。堀越町遺跡も、吉田の夢の最後のひとつだったと思うのである。

これにて、蛸畑遺跡の連載は終了するが、連載中、蛸畑遺跡について飯尾恭之氏から教示いただく好機を得た。かつて私が、『名古屋市古代遺跡・天然記念物地図(6)』を手がかりに踏査した場所は台地上だが、飯尾氏が発見し吉田富夫に示した場所は低地だったとのことである。このことを当時のわたしは知らなかったため、同地図の指示する地点を現地に復しての作業であった。地図の誤差による誤解も含めて、「蛸畑遺跡」が人々にいかに伝えられ、理解されていったかという、いわば民族誌的な視点で行文してきたことを付記する。

  1. 吉田富夫「沢観音堂貝塚址」『名古屋の史跡と文化財』、名古屋市教育委員会、1970年3月1日、14頁。
  2. 吉田富夫「尾張国名古屋市西志賀貝塚に就いて」『考古学雑誌』第23巻第6号、日本考古学会、1933年6月5日、40頁。
  3. 名古屋市文化財調査保存委員会(吉田富夫・紅村弘)『名古屋市西志賀貝塚』(文化財叢書第19号)、名古屋市経済局貿易観光課、1958年1月3日、7頁。
  4. 吉田富夫「郷土の考古学入門(7)―中央部(東・中・熱田区)の巻(3)―」『郷土文化』第23巻第3号、名古屋郷土文化会、1969年3月、35頁。
  5. 吉田富夫「則武向貝塚・船人夫町貝塚」『名古屋の史跡と文化財』、前掲書、23-24頁。
  6. 『名古屋市古代遺跡・天然記念物地図』、名古屋市教育委員会、1968年3月31日。
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2014年9月14日

蛸畑遺跡〔6〕

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蛸畑貝塚(緑区)
「尾張志」などに、鳴海宿の東北三十丁(約三・三キロ)にある蛸(たこ)畑の地は、海岸から遠くへだつのに海の貝殻を出すことを記すのは、貝塚の存在を暗示するようである。「尾張名所図会」には「章魚(たこ)畠の古覧」と題して、大だこが芋畑に上がり、芋を食べる図まで入れて、話題の興味を一層引き立てている。
それはさておき、この地、その記事に迷わされていっこうにわからなかったが、蛸畑の地名は、実は鳴海の南東、細根の手前にあり、相原から扇川を渡って、細根へ通ずる道路が、低地の水田から、台地の畑へかかる西側の台地縁に、ハマグリ・カキ・アサリ・シジミを出すことを発見したから、ここを指すのであろう。学史的な遺跡だから、大切にしたい(1)

「学史的な遺跡だから、大切にしたい」。ここに自動車道が通過することを吉田は知っていて、このように書いたのだろうか。検見塚にそうしたように。しかし、吉田の希望に反して、蛸畑遺跡は滅失した(2)

ところで、「名古屋における発見と調査のあゆみ」と副題して開催した1988年の名古屋市博物館特別展「考古学の風景」は、蛸畑遺跡をとりあげなかった。遅きに失したが、26年後のこの「考古学の風景」で明記する。

  1. 吉田富夫「遺跡ここかしこ/蛸畑貝塚(緑区)」『中日新聞』第10662号、1972年1月31日、7面。
  2. 名古屋市教育委員会『名古屋市遺跡地図(緑区)』、1979年3月。
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2014年9月7日

小原博樹三回忌

Posted by fische in Homage

小原博樹、2012年9月7日逝去。

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