2014年7月

2014年7月27日

伊藤禎樹『伊勢湾地域古代世界の形成』刊行記念講演会

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60年にわたり、名古屋で考古学研究を続けてこられた伊藤禎樹さんの著書『伊勢湾地域古代世界の形成』が、この3月に刊行されました。これを記念して、講演会を開催します。ふるってご参加ください。

日時
2014年8月10日(日)午後1時30分開演、午後4時終演予定

場所
イーブルなごや・名古屋市女性会館 2階第2研修室
アクセス:地下鉄名城線「東別院」下車、東へ徒歩5分
住所:460-0015名古屋市中区大井町7-25
電話:052-331-5288
ホームページ:https://e-able-nagoya.jp/

内容
講演「わたしの考古学六十年」伊藤禎樹さん
報告「伊藤禎樹著作集の意義」小林義孝さん(NPO法人摂河泉地域文化研究所)

■会場は伊藤禎樹著作集刊行会の名称で借りています。参加は無料です。なお、内容については追加・変更することがあります。また、終演後、懇親会を予定しています。参加いただける方は、当日でも構いませんが、事前に連絡いただけるとありがいです。本サイトの「Contact」からご連絡ください。(発起人:小林・犬塚・櫻井)

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2014年7月20日

蛸畑遺跡〔4〕

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『緑区の考古遺跡(1)』によると、次の記事が、蛸畑遺跡に関する考古学的なそれの最初という。

蛸畑
緑区鳴海町蛸畑
「尾張志」などの古文献に、この地貝殻を出すよしを記しているが、現在具体的な位置はあまり明確ではない。したがって、それが確実に貝塚であるかどうか、その性質は今日学問的に解明できないが、発見史的に鳴海としては古く、しかも唯一の文献的事実としてよく知られているものである。将来その位置もわかり、性質も明らかになる日が来るならば、きわめておもしろかろう。(吉田(2)

1963年4月1日、愛知郡鳴海町が名古屋市に編入されて緑区となったことを受けて、『名古屋史蹟名勝紀要』は「緑区」の事蹟を増補した。その中に「蛸畑」が加えられた。これ以前における近代の考古学的言及の存否は、現時点で不明である。たとえば、鳴海町町長で雷貝塚を調査した野村三郎は、知り及んでいただろうか。

  1. 三渡俊一郎・松岡浩・吉村睦志・池田陸介『緑区の考古遺跡』(文化財叢書第69号)、名古屋市教育委員会、1976年10月15日、1-88頁。
  2. 吉田富夫「蛸畑」名古屋市文化財調査保存委員会『改訂増補版名古屋史蹟名勝紀要』、株式会社名古屋泰文堂、1963年11月12日(初版:1951年11月18日)、177頁。
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2014年7月13日

蛸畑遺跡〔3〕

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『名古屋市古代遺跡・天然記念物地図』、名古屋市教育委員会、1968年3月31日。(部分)
▲ 『名古屋市古代遺跡・天然記念物地図』、名古屋市教育委員会、1968年3月31日。(部分)

1970年4月5日に、名古屋市緑区蛸畑遺跡を踏査した際のノートは、私が第1地点とした場所について「ここが地図に記載されている地点と思われるが」と書きはじめている。その地図が、『名古屋市古代遺跡・天然記念物地図(1)』である。蛸畑遺跡を示す「▲」は、前回掲示した地図の民家4棟の付近に当たる。

同図裏面には、次の説明がある。

蛸畑貝塚 緑区蛸畑
江戸時代文献に蛸畑から海の貝殻を出すと記す。細根に至る道路が蛸畑の台地に上る西側に、貝殻の散布を見るが、あるいはここであろうか。将来の精査を待つ。

吉田富夫が書いたに違いない「将来の精査を待つ」の結語に、私は動かされた。

  1. 『名古屋市古代遺跡・天然記念物地図』、名古屋市教育委員会、1968年3月31日。
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2014年7月6日

蛸畑遺跡再訪

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蛸畑遺跡 2014年7月2日
▲ 「蛸畑遺跡 1970年4月5日 〔1/4〕」と同じ方向から見る。

2014年7月2日、蛸畑遺跡にゆく。

名二環をゆくとき、この上の高架を通過しているが、地上でこの遺跡をたずねたのは44年ぶり。かつては名鉄名古屋本線有松駅から徒歩で、この日は国道302号を自動車で。

Google マップ、ストリートビュー、名古屋市都市計画基本図などインターネット上の情報でだいたい把握していたとおりに、現地は大きく様変わりしていた。あの民家2軒4棟はなく、名二環の敷地になっていた。高架のせいで空間の感覚が狂うが、歩いてみると微妙な地形の変化に体が反応する。あの2軒は、北にくだる緩やかな坂の途中にあったのだ。

ところで、かつての2軒のあいだを通っていた道路、つまり有松と相原郷をむすぶ道路の交通量の多さに驚く。片側に幅1mほどの歩道があるばかりで、そこを人や高校生の自転車が往くから、自動車は接触しないよう減速したり避けたりする。急速に都市化した地域の、都市化以前のままの道路にありがちな光景であった。

「右 白土/左 相原」の刻字のある石仏があったが、もとあった場所からは多少移動しているのだろう。「相原から川を渡つて細根へ通ずる道路(1)」と吉田富夫が書いた道路の細根側で、行く先を指示する道標である。旧道の様相を呈する両側は、比較的古い住宅街で、東側の小谷へくだると、地形、林相、畑など昔のままのようだった。もちろん、44年前の中学生は遺跡のことしか眼中になく、周囲への注意はなかったが・・・。そのかわり今回は、遺物の散布が見られるかなど、まったく気にしなかった。

  1. 吉田富夫「蛸畑貝塚」尾崎久弥・佐々木隆美・城戸久・市橋鐸・坪井忠彦・伊藤亮三・吉田富夫・芥子川律治・藤井制心・高木栄一郎・岡本柳英・小島広次・林董一・水野時二・桜井龍一『名古屋の史跡と文化財』、名古屋市教育委員会、1970年3月1日、19頁。
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