2014年4月

2014年4月26日

古墳、サブカル、ポピュリズム

Posted by fische in Activity, Theory

『馬越長火塚古墳群と穂の国の古墳』と『歴史の里/志段味古墳群』。
▲ 『馬越長火塚古墳群と穂の国の古墳』と『歴史の里/志段味古墳群』。

左は、過日引用した『馬越長火塚古墳群と穂の国の古墳(1)』。右も、先月発行されたばかりの『歴史の里/志段味古墳群(2)』。本文縦組み/横組みの違いはあるが、A5判、16頁、ホチキス中綴じ、オールカラーが共通する。対象が古墳であること、キャラクターを用いる点も同然である。

一時期アートマネジメントが流行し、その後どうなったか知らないが、なるほど、ふたつのパンフレット相似の背景に、古墳マネジメントのようなものの存在を強く感じる。それには、考古学の方法論のひとつ形態学的想像力を動員するまでもない。古墳の「保護活用」と言うよりは、マーケチング、マネジメント等々商売であり、グローバリゼーションと封建制の結合の産物と言える。

形式は無論のこと、内容もステレオタイプの物語であり、ここには構造しかない。古墳のサブカルチャー化である。

「いま、古墳はブームである」と唱えて、古墳をもてあそぶ宗教じみた騒ぎがある。それは、自然発生的にブーム化しているのではない。行政とその外郭による仕掛けに、人々がかかり(かかったふりをし)、動員されている(されたふりをしている)にすぎない。行政と外郭の自走化、保身化、持続化のための、ポピュリズム、トンデモである。

このサブカルチャー(さらにはポップカルチャー)の、決してカウンターカルチャーでないところが味噌である。サブカル古墳は、生権力のための官製ツールなのだ。

これは考古学ではない。博物館(収集保管、調査研究、公開教育)でもない。

  1. 豊橋市文化財センター編『馬越長火塚古墳群と穂の国の古墳』、豊橋市文化財センター、2014年3月16日。
  2. 『歴史の里/志段味古墳群 』、名古屋市教育委員会文化財保護室、2014年3月。
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2014年4月19日

戸坂潤

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 戸坂潤「科学の歴史的社会的制約」「科学の大衆性」のブルーコピー(1972年)
▲ 戸坂潤「科学の歴史的社会的制約」「科学の大衆性」のブルーコピー(1972年)

過日刊行された『伊勢湾地域古代世界の形成』に、次のようにある。

この運動の過程で昭和堂クラブと呼ばれる市民の学習会を催す。昭和堂書店を会場に岡本俊朗君、桜井隆司、犬塚康博君たちと戸坂潤の『日本イデオロギー論』などを輪読したのを憶えている(1)

『日本イデオロギー論』は記憶にないが、「科学の歴史的社会的制約」「科学の大衆性」は憶えているし、そのときのブルーコピーがいまも手許にある。『イデオロギーの論理学』のなかの二章で、齋藤宏さんが用意された。この学習の成果が、「見晴台発掘と僕達の考古学―「職人の考古学」←→「趣味の考古学」を止揚し、「大衆の考古学」を創造しよう!―(2)」である。

このほかに、フリードリヒ・エンゲルス『猿が人間になるにあたって労働の役割』、考古学研究会編『新しい日本の歴史』を読んだ。

なお、『イデオロギーの論理学』は以下で読める。
青空文庫
Kindle版

  1. 伊藤禎樹「あとがきにかえて―わたしの考古学」伊藤禎樹『伊勢湾地域古代世界の形成』、株式会社アットワークス、2014年3月20日、375頁。
  2. 「見晴台発掘と僕達の考古学―「職人の考古学」←→「趣味の考古学」を止揚し、「大衆の考古学」を創造しよう!―」伊藤禎樹・犬塚康博・岡本俊朗・小原博樹・斎藤宏・桜井隆司・村越博茂・安田利之『見晴台と名考会に関する問題提起-その2』、1972年11月26日、4-13頁。
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2014年4月12日

マルクス主義歴史学の系譜

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1983年の岡本俊朗急逝後、2年をかけてつくった遺稿追悼集に、「日本考古学の変革と実践的精神」の副題をつけた(1)。これは、三澤章(和島誠一)の「日本考古学の発達と科学的精神(2)」の、いわゆる本歌取であり、提起したのは齋藤宏さんだったと憶う。辻内義浩さんだったかもしれない。

伊藤禎樹さんの『伊勢湾地域古代世界の形成(3)』は、藤間生大の『東アジア世界の形成』であろうか。

伊藤さんは、高校生の頃に「学校の図書館で出版されたばかりの藤間生大『日本民族の形成』に心を揺さぶられる(4)」ことがあったと書いている。

「このような問題を少くとも自覚的にとりあげたのは藤間生大氏の『東アジア世界の形成』だけではないか(5)」と評したのは石母田正であり、このような問題とは「「交通」を媒介とするこの「内」と「外」との相互関係、両者の相互転化と相互浸透の問題(6)」の、近代史と古代史とでの差異性の如何であった。

そして伊藤さんは、「政治勢力相互の戦争状態をも含む広義の交流である石母田正のいう「交通」の意義に思いをいたす(7)」とも書く。

マルクス主義歴史学の系譜がある。

  1. 岡本俊朗追悼集刊行会編『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記-日本考古学の変革と実践的精神-』、岡本俊朗追悼集刊行会、1985年8月2日。
  2. 三澤章「「日本考古学の発達と科学的精神」『唯物論研究』第60号、唯物論研究会、1937年10月1日、104-115頁、同「日本考古学の発達と科学的精神(二)」『唯物論研究』第62号、唯物論研究会、1937年12月1日、120-135頁。
  3. 伊藤禎樹『伊勢湾地域古代世界の形成』、株式会社アットワークス、2014年3月20日。
  4. 同「あとがきにかえて―わたしの考古学―」、同書、369頁。
  5. 石母田生「古代における「帝国主義」について―レーニンのノートから―」歴史科学協議会編『歴史評論』No.265、株式会社校倉書房、1972年8月1日、46頁。
  6. 同論文、46頁。
  7. 伊藤禎樹「はじめに」、前掲書、9頁。
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2014年4月5日

蛸畑遺跡

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名古屋市緑区の蛸畑遺跡を踏査したのは、44年前のきょう。

吉田富夫「緑区鳴海町蛸畑遺跡の位置(1)」に刺激されてのことだったように思う。くわえて、東枇杷島、名西橋と、西区の庄内川沿いを生活圏としてきた10代の私にとり緑区は別世界だったが、1969年夏の第8次見晴台遺跡発掘調査参加を経て、同様に別世界の南区、名鉄笠寺駅まで行動範囲が広がっていたことが、緑区への延長を容易にしたと言える。

かくして名鉄名古屋本線の有松駅で降り、11時から15時頃にかけて歩いた。3箇所で貝殻の散布を見るが、農作業者への聴き取りなどから新しいものではないか、というのが当時の印象である。そのうち1箇所で、条痕のある土器片1点を採集。

ところで、撮影データのない一連の写真がある。蛸畑遺跡踏査時のものと記憶してきたが、今回、当時の都市計画図と比較して、そうであることがわかった。4棟の民家が写真と地図(赤色)とで対応する。現在、民家のある場所は、名古屋第二環状自動車道が通っている。

S48-S52 名古屋市都市計画基本図(一部改変)
▲ S48-S52 名古屋市都市計画基本図(一部改変)

蛸畑遺跡 1970年4月5日 〔2/4〕
▲ 蛸畑遺跡 1970年4月5日 〔2/4〕

  1. 吉田富夫「緑区鳴海町蛸畑遺跡の位置」『名古屋考古学会会報』11号、名古屋考古学会、1969年6月1日、8頁。
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