2014年1月

2014年1月25日

上志段味歴史の里呪いの里

Posted by fische in History, Miscellanea

「呪いの人形(1983年4月11日撮影)」深田虎太郎「中世甕棺墓と呪いの人形」『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』創刊号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1985年8月30日、20頁。
▲ 「呪いの人形(1983年4月11日撮影)(1)

31年前、呪いの藁人形に遭遇した。場所は、名古屋市守山区上志段味の東谷山上。尾張戸神社北西側、東谷山中世墓の上に設けられた小建屋のまわりを進んだとき、目の前に人形が突然現れ、私は肝を潰した。生々しかった。

以下は、同道の人による記録。

甕棺墓の時代はともかく祠の東南の角の柱に、呪いの藁人形が多数の釘でしっかりと打ちつけられているのには、すくなからず驚かされてしまった。
N大学I教授の講義を引用すると、アメリカの呪術学者フレーザーの学説によれば、呪術には3種類があり、類感呪術、感染呪術、意志呪術、藁人形などは最後の意志呪術に属するものであると教えられた。のろいを唱えながら暗夜に1人多数の釘を打ちこみ、最後に5寸釘を人形の心臓に当たる箇所に打ち込むのが呪いの藁人形のパターンである。
藁人形の実測値―頭から足の先まで全長19.5cm、足の部分で3cm、手を広げだ幅が13cm、打ち込まれている釘の数―頭部54本、左右の手に14本、胴9本、左足8本、右足9本、それに心臓部に1本大釘が打ってあり、ほとんど人形の全身にすきまなく打ってあるが、釘の深さがまちまちであまり上手な仕上げではないようである。藁は昨年とり入れたときのものか? 古くとも1昨年ではないかと思われた。それによって造られた時期がおおかた推定出来る。
釘の総数95本、発見日時昭和58年4月11日午前11時頃。当日は午前中くもり午後から又雨となる(2)

当時は、誰かが個人的な恨みをはらすためにおこなったものだろうと思ったが、1983年といえば志段味・吉根地区で区画整理事業が具体化していた時期。4地区最初となる吉根の土地区画整理促進区域決定が1983年3月25日、組合設立認可が1984年3月30日であった。個人にとどまらない、社会的な恨みがあったのかもしれないと、いまは思える。人口増とともに増える犯罪、それにともなう警察巡回の増加。2011年9月、台風15号の影響による吉根・下志段味・中志段味の洪水被害・・・。そうでなければよいが。

それにしても、アミューズメント(おかしさ、おもしろさ、慰み、楽しみ、気晴らし・・・)で古墳を掘ってはいけない。
「呪いの人形(1983年4月11日撮影)」深田虎太郎「中世甕棺墓と呪いの人形」『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』創刊号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1985年8月30日、20頁。

  1. 深田虎太郎「中世甕棺墓と呪いの人形」『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』創刊号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1985年8月30日、20頁。
  2. 同論文、19-20頁。
2014年1月18日

「朝日遺跡群」以前のこと

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FUJI Fujica Drive
▲ 1
FUJI Fujica Drive
▲ 2
FUJI Fujica Drive
▲ 3

撮影データは残っていないが、作付けのおこなわれていない時期の畑に、貝塚の貝殻が散布する状況を写したもの。

1と2は同じ地点の遠近で、二反地貝塚と思われる。3は、貝殻山貝塚の東側であろう。いずれも同日の夕方、西から東に向かって撮影しており、1と3の遠方には名岐バイパスが見える。

翌年「朝日遺跡群」と呼ばれるようになり、さらにいまでは行政的に「朝日遺跡」と呼ばれる、この遺跡の貝殻山貝塚には、1969年から1970年6月頃までよくおとずれたが、この写真は1970年のおそらく3月以前の撮影と思われる。

その1年後、この一帯はズタズタに蹂躙される。

その頃一度ここをたずねたが、トレンチがあけられ、黒黒とした土を露わにするそのさまは、失敗した外科手術の途中のような光景だった。

それから二度と来ようとは思わなかった。1980年以降、仕事で来ることがあるまでは。そして、仕事以外で来るのは、2013年のことであった。

2014年1月11日

朝日遺跡群破壊43年を記念する

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43年前のいまごろである。清洲町(当時)朝日にある大遺跡の一帯に重機が入り、大規模破壊を開始したのは。

ところで、朝日遺跡群(1982年以降は朝日遺跡)破壊事件と保存運動に言及した所論に接した記憶がない。私が、忘れているだけなのだろうか。愛知県の考古学の状況を批判した渡辺英樹の論文「愛知県下の考古学研究者―戦後の潮流― 」(1)」も、数行触れるだけであった。あるのは、行政権力による万歳総括だけである。この不健全な社会。38度線以北の同工異曲。

そういう事情もあったからだろう。この問題を論じようとしていた岡本俊朗のメモを、よく憶えている。できあがった遺稿追悼集では、コメントでひとことするにとどまったが(写真(2))、もとのメモはもう少し具体的なものであった。いまただちに、岡本の書いた原本にアクセスできないため、ここではコメントの草稿を掲げる。

当時の岡本の課題意識を、そのまま再現して展開することはすでにかなわぬが、1971年の朝日遺跡群破壊事件と保存運動の意味は問われてしかるべきである。

彼の一時期のノートには、「学問論」に関するメモがいたる所に残されている。これを詳細にたどると、当時愛知県下で問題化していた、朝日遺跡群保存運動に対する批判として書かれようとしてたものである事が判る。「遺跡保存運動の論理」と題されたこの草稿は、

Ⅰ.環2と土地改良事業と朝日遺跡群

Ⅱ.71年度中の朝日遺跡群の保存運動(朝日遺跡群保存会、東海の文化財を守る会)

Ⅲ.かつての保存運動と論理―新しい萌芽、賀茂の場合

Ⅳ.保存運動の論理と〈学〉の社会への権力志向(社会的存在価値の確立)

という構成で、構想されており、「学問論」はこの前提―プロローグないしはエピローグ?として用意されていたようである。
現在、手許に残されているメモは、いずれも断片的なものである。しかしそこに展開されている内容は、彼の〈学〉に対する考え方が判るものであり、捨象し難いため、その中で一番文章化されている稿を軸に据えて、他の稿で展開されている内容・表現等を挿入する等して、編集した。原則的に、全文彼の文章で構成し、若干の接続詞等補った。

「学問論」コメント
▲ 「学問論」コメント

  1. 渡辺英樹「愛知県下の考古学研究者―戦後の潮流― 」『プロレタリア考古』第15号、「プロレタリア考古」編集局、1974年11月1日、2-3頁。
  2. (「学問論」コメント)岡本俊朗追悼集刊行会編『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記-日本考古学の変革と実践的精神-』、岡本俊朗追悼集刊行会、1985年8月2日、143頁。
2014年1月4日

恭賀新禧 2014甲午年

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『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記-日本考古学の変革と実践的精神-』を、ご希望の方にお譲りします。

編集者のお宅に保管されていた在庫を、譲っていただきました。経年変化等による褪色や擦れが外部にありますが、読書にはまったく問題ありません。なくなり次第終了します。

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