2013年12月

2013年12月28日

愛知の管理教育と朝日遺跡群破壊

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仲谷義明「序」愛知県教育委員会編『朝日貝塚予備調査報告』、愛知県教育委員会、1970年3月、(序の頁)、同「序」(奥付なし)(『貝殻山貝塚調査報告』、愛知県教育委員会、1972年)、(序の頁)。
▲ 仲谷義明「序」愛知県教育委員会編『朝日貝塚予備調査報告』、愛知県教育委員会、1970年3月、(序の頁)、同「序」(奥付なし)(『貝殻山貝塚調査報告』、愛知県教育委員会、1972年)、(序の頁)。

過日Twitterで、知己 @polieco_arche とやりとりをしていて想起したことを少々。

私が高校に通っていた頃は、愛知の管理教育(1)全盛だった。幸運にも私は県立高校でなかったから、直接の被害は蒙らなかったし、三校禁はあったものの、お構いなしに交流していた。管理教育のシンボルは教育長の仲谷義明(2)。まだ潔癖だった高校生には、悪魔のように見えた。やがて県知事になり、退職後に自殺。五輪招致失敗を苦にしてのことと言われ、いまなお都市伝説の様相を呈している。

仲谷が教育長だったときに起きたのが、1971年の朝日遺跡群破壊事件である。報告書の「序(3)」に、その名が見える。通常、知事本人が書くことは稀で、下級役人が起案し決済をとる。当時の県教委の文化財担当は柴垣勇夫であった。

これより遡って、私が中学生のとき、学校の野外活動で遠方にでかけるのに際して、その付近の遺跡の教示を乞いに、級友と二人で愛知県教育委員会の所轄課に行ったことがある。学校から歩いて5分もしない場所で、通学路でもあったから、教師に相談もせず気安く思い立って事前に電話をし、しかし緊張しながら出かけた。西庁舎の上の方の階へゆき、主旨を伝え話を聞き分布地図のコピーをもらった。私たちに応対した無愛想な人は、「掘るんじゃないぞ」だったか「壊すんじゃないぞ」と付け加えた。中学生にとって、その否定形は威圧的であった。私は、何か悪いことをしているような気分に苛まれた。

以下は後知恵だが、考えてみれば、中学生ができる破壊など知れたもので、じきに起こった朝日遺跡群の破壊の比ではない。分野は異なるが、大阪市立自然史博物館の日浦勇が、自然と人間を「物質的なかかわり」(資源としての自然、環境としての自然)と「精神的なかかわり」(モチーフとしての自然、風土としての自然)とにおいてとらえ、昆虫採集犯罪論に慎重だったのとは雲泥の差がある。(4)

柴垣は、当時二十歳代後半で、文化財保護という権力行政と教育の区別ができなかったのだろうか。そしてその人が、やがて愛知県陶磁資料館に籍を置くのだから、世の中は摩訶不思議である。とは言っても、同館は教育委員会ではなく知事部局所管だから不思議でないのかもしれないが、博物館人、廣瀬鎮だったらあり得ない「掘るんじゃないぞ」「壊すんじゃないぞ」の思想の持ち主が、博物館していたのである。仲谷の管理教育時代の文化財行政は、柴垣が執り行っていた。柴垣に限らず、県の教育行政全体の文化が仲谷的だったのだろうが、高校生の私には仲谷すなわち柴垣であった。

  1. 管理教育 – Wikipedia」。
  2. 仲谷義明 – Wikipedia」。
  3. 仲谷義明「序」愛知県教育委員会編『朝日貝塚予備調査報告』、愛知県教育委員会、1970年3月、(序の頁)、同「序」(奥付なし)(『貝殻山貝塚調査報告』、愛知県教育委員会、1972年)、(序の頁)。
  4. 日浦勇「われわれにとって「蝶」とは何か―放飼問題を考えるために(I)―」日浦勇著、日高敏隆・堀田隆・千地万造・柴田保彦・瀬戸剛・宮武頼夫・那須孝悌編『日浦勇著作集』、日浦さんの遺稿出版する会、1984年10月10日、296-298頁。初出は『やどりが』80・90号、1977年、35-37頁。
2013年12月19日

「古墳発掘体験」に反対する

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『中日新聞』第25575号、中日新聞社、2013年12月17日、1面。
▲ 「市民も古墳発掘体験/守山で全国初 整備計画」『中日新聞』第25575号、中日新聞社、2013年12月17日、1面。

12月17日付中日新聞朝刊1面に「市民も古墳発掘体験/守山で全国初 整備計画」の文字が躍った。

片言隻句をとらえての、さまざまな批判が可能である。それらはすべて正しいだろう。悟性的に。どなたかの全面展開を切望する。

では理性的にはどうか。「歴史からなにも学ばない人たちによる、歴史からなにも学ばない人たちの再生産」。そう直観的に仮説し、後考する。それにしても、赤塚次郎以降愛知県のポストモダン考古学の徒花のようで、痛く、ウザイ。

同記事を受けて取り急ぎおこなったツイートは、古い方から順に、以下のとおり。

2013年12月16日

月の輪古墳発掘60年を記念する

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月の輪古墳刊行会編『増補・復刻月の輪教室』、月の輪古墳刊行会、1978年12月1日、表紙。
▲ 月の輪古墳刊行会編『増補・復刻月の輪教室』、月の輪古墳刊行会、1978年12月1日、表紙。

十二月十六日、私は暖い冬の太陽に汗ばみつつ月の輪古墳の前に立った。まる裸に皮をひんめくられた、直径六十四米・高さ十二米の巨人の骸。この日を心に期して暮した二十有余年、私の夢は月の輪古墳の発掘によって実現されたのである。ああ(1)

  1. 赤松啓介「ああ、私の夢が実現された」月の輪古墳刊行会編『増補・復刻月の輪教室』、月の輪古墳刊行会、1978年12月1日、184頁。
2013年12月14日

「ここは生かそう。ここも生かそう。」

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「こわれたら、くっつければいいのです!(1)

岡本俊朗がそう言ったときの逸話は、これをタイトルに冠した片山千鶴子の追悼文が教えてくれた。これを収めた遺稿追悼集の帯にも用いた。岡本を象徴することばだった。

もうひとつ印象的な追悼文があった。1983年の『見晴台教室』に載っていた中学生の作文で、発掘調査に参加し、日刊の『見晴台ニュース』担当になったときのエピソードである。

ぼくは、一班のニュースの記事がまだできていなくて、整理室の中で記事を書いていた。そして、やっと、下書きができあがり、清書に移った。ぼくは、こういう仕事は、あまり得意でないのでいろいろ苦労していたら、おっちゃんが、いろいろ教えてくれた。それにぼくからの質問にも、わかりやすく、答えをくれた。
(略)
ぼくが、ニュースの清書ができたときに、ぼくの清書を見て、ある先生が、「ここはこうなおして、ここもこうなおして。」といったとき、おっちゃんは、「ここは生かそう、ここも生かそう(2)。」といってくれました。

いま読み返すと、中学生におこなった自分の指導が、教師に否定されたことへの反対とも受け取れるが、そこまで穿ってみなくてよいだろう。

岡本の重層的な態度はどこからくるのだろう。もちろん岡本は、ダメと言わないわけではない。「原則は断乎として原則であり/簡単に曲げられたり/とり替えられるべきものではない(3)」と頑なようすも見せる人であった。

  1. 片山千鶴子「「こわれたら、くっつければいい」」岡本俊朗追悼集刊行会編『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記-日本考古学の変革と実践的精神-』、岡本俊朗追悼集刊行会、1985年8月2日、231頁。
  2. (矢田中 1年)「悲しい結末」岡本俊朗追悼集刊行会編、前掲書、84頁。
  3. 岡本俊朗「〔闘争は科学であり〕」、前掲書、37頁。
2013年12月7日

吉田富夫の博物館論

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博物館に関する吉田富夫の発言の最初がいつで、それはどのようなものだったのか──。

1969年に吉田は、次のように書いている。

諸外国では、どんな小都市でも、その町の歴史をひと目でわからせてくれる博物館を持っているという。わが国でも最近では案外中小都市がこれを決行しているのに、名古屋にまだそのことがないのは恥ずかしい次第である。また諸外国の教育は、博物館における実物教育が、効果的かつ重要な方法となりつつある。図書を読むだけの知識ですましていたのでは、一向に実力はつかない。名古屋の官、財界も教育界も、みな手を携えて、こうした施設の完備に力を入れたいものだし、社寺など文化財所有の向きも、適宜な方法で展示見学の便を与えるように、考慮を払ってほしいと思われる。博物館施設は本市かねての懸案のひとつであるが、こぞってその実現に協力せられ、一日も早くその活用の可能な日の来るのを待つこととしよう(1)

原始から明治までの名古屋の文化史を、考古学的事実を中心にして著した単著の「むすび」が、博物館であった。

同じ時期、さらに詳しく説いている。

史跡公園が、遺跡保存活用の最良の方途だとすると遺物保存活用のための最善の施設は、やはり博物館ということになろう。
遺物はただ並べて見せればいいというものではない。美術品ならそれ自体の美を鑑賞すればいいのだから、別に手を加える要はない。しかし遺物は出土状態がたいせつな場合も多く、そうした説明図が必要であろうし、使用法を知らせるためには、復元のための加工も必要となろう。要するに当時の生活の状態を知らせるのには、いろいろな工夫と設備が必要なのである。そのためにの設備が完備している場所でなければ、工夫もしにくいと同時に、勉強も不充分にしかできないのである。
この意味では、博物館はまず収蔵庫でなければならないと同時に、先にもちょっと述べた通り、教育の場でなければならない。わが国では図書による教育は非常に盛んで、図書館は普及している。しかし、実物による教育の方が、さらに必要であることは当然のはなしである。単なる物置きか倉庫でしかない博物館さえも少ないであろうに、そのための博物館というのは、一層少ないのが現状である。
外国では常に催しものを行なって、いつも大衆を博物館に引きつけている。静的な物置きにしておかずに、動的に活用し続けているのである。「さわってはいけません」と禁止するのでなく、備品を貸与して自由に研究させるのである。博物館における学習活動ということが、珍しいことではなくなっている。
したがって大衆と博物館との間の関係は、一層緊密である。珍しいみやげを自家に死蔵せず故郷の博物館へ寄贈することを約束して安心する例は、よく見聞きするところである。個人の収集が核をなしてでき上がった博物館もよくあるし、第一どんな中小都市でも、まずその歴史を知らせる博物館のないところはないほどである。
わが国の文化財保存は、古来神社仏閣や上層階級の手にゆだねられて来たと言ってもよかろう。しかし最近では、かなり中小都市でもそれぞれの規模にふさわしい博物館を設けて、土地の歴史を知らせる風が盛んになりつつあるのは、喜びにたえない。民芸館など最も大衆に親しいはずの施設も、方々にできつつある。日本独特のよさがも、土地土地のローカルな味わいが、本当に見直されて来た証拠である。
今後名古屋にできる博物館は、ぜひそうした意義の夢を盛ったものであってほしい(2)

1969年に吉田の博物館論が連続するのは、名古屋に博物館を設置する計画が1968年に行政内ではじまったことを受けているからかもしれない。ほかの名古屋市文化財調査委員は何か発言しているだろうか。過去に接した記憶がない。

さて、吉田の博物館論の特徴は、次の諸点にある。
第一に、史跡公園論と構造化されていることは、別に触れたとおりである。上の記述と総合すると、「遺跡─永久保存活用─史跡公園/遺物─記録保存活用─博物館」となる。第二に、設備→工夫→勉強という三段論法を用いている。設備は博物館、工夫は展示技術であり、これらによって勉強が基礎づけられることになる。ここであらかじめ明らかなように、以後は勉強すなわち教育に引き寄せられて行論されゆく。「教育の場でなければならない」の語は、力強くかつが象徴的である。続く外国例の参照は豊かである。「静的/動的」の二項図式は、昭和初期以来わが国の博物館研究で続けられてきた「死んだ博物館/生きた博物館」のバリエーションである。ステレオタイプとは言え吉田もこの構造的理解を有していたことは、博物館の論理上正しい姿であった。

その吉田の求めた博物館は、1977年に名古屋市博物館として開館する。現実はどうだったか。「常に催しものを行なって、いつも大衆を博物館に引きつけて」はいた。見せ物小屋のように。しかし、1980年の時点でも、「「さわってはいけません」と禁止するのでなく、備品を貸与して自由に研究させる」ことはなかった。「大衆と博物館との間の関係は、一層緊密である」と言えただろうか。いまはどうか知らないが、民芸のジャンルは否定していたから、「最も大衆に親しいはずの」領域は失われていた。

名古屋市博物館はそのはじまりにおいて、吉田の博物館論の水準に達していなかったと言える。それはこの博物館内外における期待や希望が、教育よりも研究に重点があったためと考えられる。そう言えば、吉田の博物館論には研究が不在であった。考古学研究者による博物館論でありながら研究が説かれないのは奇異だが、その所以についてはあらためて考えてみたい。

私事、吉田の博物館論には1970年に接していたが、今回初見に等しかった。当時私が博物館に関心がなかったためである。1990年代以降博物館を主題とするようになってからも、吉田の所論を顧みることはなかった。しかし、強い既読感があった。特に外国例を引くくだり、「第一どんな中小都市でも、まずその歴史を知らせる博物館のないところはないほどである」には、藤山一雄の博物館論(3)を想起したし、「珍しいみやげを自家に死蔵せず故郷の博物館へ寄贈することを約束して安心する例は、よく見聞きするところである。個人の収集が核をなしてでき上がった博物館もよくある」などは廣瀬鎮の『博物館は生きている(4)』的である。吉田が師事した浜田青陵の博物館論(5)、や、さらには棚橋源太郎のそれ(6)も及んでいるに違いない。廣瀬に支持されながらおこなわれた荒木実の博物館づくりも、吉田には親しく存した。吉田の博物館論はどこからきたのだろうか。

吉田亡きあと、入稿済みだった名古屋市内の遺跡を紹介する新聞連載コラムがはじまる。連載最終の100回目も、やはり、博物館で締められていた。

発見された遺物も、また決して少なくない。博物館ができれば、みな展示の機会を待つものばかりである(7)

  1. 吉田富夫著・名古屋市経済局観光課編『名古屋のおいたち─見てまわろう名古屋の文化史─』、名古屋市、1969年9月20日、137頁。
  2. 吉田富夫「埋蔵文化財のはなし─歴史のなぞとその解明─」名古屋市教育委員会事務局総務部調査企画課編『教育だより』昭和45年1月号、名古屋市教育委員会、1970年1月16日、9頁。
  3. 藤山一雄『新博物館態勢』 (東方国民文庫第23編)、満日文化協会、1940年10月20日、など。
  4. 広瀬鎮『博物館は生きている』(NHKジュニアブックス1)、日本放送出版協会、1972年10月15日。
  5. 浜田青陵『考古学』(日本児童文庫54)、アルス、1929年9月5日。
  6. 棚橋源太郎『眼に訴へる教育機関』、宝文館、1930年11月10日、など。
  7. 吉田富夫「遺跡ここかしこ おわりに」『中日新聞』市民版、1972年3月20日
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