2013年9月

2013年9月28日

見晴台と名考会に関する問題提起

Posted by fische in Activity, History

▲ 「見晴台と名考会に関する問題提起」のパンフレット、1972年5月・11月。

小原博樹の行動、言動等を通じて、1972年、1973年頃の見晴台の一端を見てきたが、これは、見晴台遺跡の発掘調査と公園化の進め方が、それ以前と大きく変わろうとしていたときの、独り小原にとどまらない集合的な体験であった。

1972年に2度おこなわれた「見晴台と名考会に関する問題提起」が、運動としての見晴台の、直接のはじまりである。用意されたパンフレットの、1度めの全文と2度めの一部が、『見晴台のおっちゃん奮闘記-日本考古学の変革と実践的精神-(1)』に復刻されている。その際に、私が書いたコメントは次のとおり。

市民参加の見晴台遺跡発掘調査の確立とは、即ちそれを担う主体の確立であり、在野の研究団体たる名古屋考古学会を通じてその実現を構想する事は、必然であった。そして、それは名考会の運営体制の改革をも意味し、その実現を迫る事になった。彼(岡本俊朗のこと─引用者注)と伊藤禎樹・小原博樹・斎藤宏・桜井隆司・村越博茂の会員諸氏によって、名考会の’72年春の大会(5月21日)席上、問題提起はなされた(2)

名考会の’72年秋の大会(11月26日)に於て、問題提起は、彼(岡本俊朗のこと─引用者注)と伊藤禎樹・犬塚康博・小原博樹・斎藤宏・桜井隆司・村越博茂・安田利之ら会員諸氏によって再びなされた。この時既に、第10次見晴台遺跡発掘調査の成功、桜本町遺跡破壊事件への直面という経験を得ており、問題提起は、その報告という性格を帯びた。これを機に、〈在野の研究者集団〉という回路を離れ、より直接的に〈非専門家たる市民〉が、見晴台の主人公となっていくのである(3)

第1次から第8次が、まずあった。そして、第10次とその前後の「見晴台と名考会に関する問題提起」が、それ以降を決定した。そのとき、第9次はアモルファス(4)となった。

見晴台の転換期が、急ぎ足で通り過ぎていった。

  1. 岡本俊朗追悼集刊行会編『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記-日本考古学の変革と実践的精神-』、岡本俊朗追悼集刊行会、1985年8月2日、1-588頁。
  2. 同書、103頁
  3. 同書、113頁
  4. 夏の遺跡(2)」『ore nest : blog』、2011年9月29日。
2013年9月21日

小原博樹の独占資本主義考古学批判

Posted by fische in History, Theory

小原博樹の旧蔵書『考古学の方法』の見返しに、小原の筆跡の書き込みがある。小原の著述なのか、他人の著作物の写しなのか不明だが、小原の考古学批判が奈辺にあったのかを知ることができる。

現在、学問や研究は、それを担っている教授個々人の主観的意図とは別に、その総体としての成果は独占資本の私有物としてある。学問の成果が人民に還元されるといっても、現在の資本主義的生産関係を媒介にしている以上、それは独占資本の財産を増すことを通じ、かつまた労働者に対する合理化や商品の洪水を通じてしかでない。
ただ研究者をかりたてるのは、彼らのもつ小所有者意識であり、自己の論文があたかも自己の私有財産であるかのように蓄積され、そのことにより学界での地位や社会的地位が確立してゆくというそのことである。
そのためには、本来なら認識はトータルなものとしてあるにもかかわらず、およそ普遍性を欠き、細分化された領域の中へ、馬車馬のように自らを閉じ込めて成果をあげんとしている。研究至上主義なるものも「何はともあれ研究第1」という形で、体制に対する批判も、学問の位置も目的も見失わせるものでしかない。同時にそれは一皮むけば現世的利害関係によって支えられている。

※自己否定と変革
個別改良
闘争の否定

ステレオタイプで聞き飽きた感がする。だが、正しい。

さらにしかし、正しさだけで万事オーライとはゆかぬもの。状況は、その正しさの前で我関せず焉とステレオタイプにあり続け、正しさもまたステレオタイプにあり続ける。

両者安定のもと世人能く生きる哉。プリミティブだったりナイーブだったり。

2013年9月14日

「運動として参加した見晴台」

Posted by fische in Miscellanea

1970年代前半、小原博樹に引率され見晴台遺跡の発掘調査に参加した男子中学生が、参加の感想を求められたとき、「運動ができるからよいと思う」旨の応答をした。それを聞いた小原が、「一瞬、運動のことかと思ってびっくりした」と、うれしそうに話す場に居合わせたことがある。中学生が、身体を動かすことの意で言った運動を、小原は別の運動の意に受け取ったのである。小原にとって運動の語は、格別有意のように私には見えた。

小原の「運動として参加した見晴台(1)」とは何だったのか。

そのひとつは、逆説としての「運動として」である。調査としての(=素朴調査主義)、研究として(=研究主義)への反対である。調査のためだけの見晴台、研究のためだけの見晴台、つまり考古学だけの見晴台への反対である。大学で考古学を学んだ、小原ゆえのアンチと言える。そして小原自身、1977年に、考古学に関する蔵書を、仮設だった見晴台考古資料館に寄贈して、自己の考古学と訣別する。

もうひとつは、順説としての「運動として」である。どういう運動だったのか。オフィシャルな文章を引けば、次のとおりである。

発掘期間中、見晴台では、数々の企画を試み実行に移していった。毎日の見晴台ニュースの発行、案内板の設置、作業前後の集会、周辺遺跡の見学会、参加者全員の討論会等は、参加者が見晴台遺跡の性格と調査の目的をできるだけ理解しあい、同時に、発掘を通じて考古学の方法をともに学んでいくための試みであった。さらに、見学者へのニュースの配布と説明、現地見学会なども企画実行された。このような企画を通じて、見晴台遺跡の保存と活用への一般市民の参加の糸口は、わずかずつではあっても開かれてゆくであろう(2)

「市民参加」である。見晴台遺跡の市民参加運動と、仮に呼んでおこう。

ところで、この活動のメニューを見て想起するのは、満洲国国立中央博物館がおこなった博物館エキステンションである(3)。博物館エキステンションは、恐慌後のアメリカの博物館がおこなったmuseum extentionを参照した活動で、museum extentionは従来サービスを届けることのなかった地域、住民、総じて社会に博物館を拡張する運動であった。あらためてこの経験を踏まえれば、見晴台の運動は、見晴台を市民に拡張する見晴台エキステンションであり、考古学を主語にすれば考古学を市民に拡張する考古学エキステンションであったと言うことができる。その上で小原の関心の中心が、見晴台エキステンションの方にあったことは言を俟たない。

1979年に考古資料館が開館し、職員が配置され、見晴台エキステンションは行政の制度となった。満洲国の博物館エキステンションも、戦後日本の博物館法に越境して「定着」した。

わたしはいつしか見晴台とは疎遠になってしまったが、教育現場の一つの問題としてこだわり続けている(4)

1985年に小原がそう書いたのは、運動が去ったことの別の謂いであった。

  1. 小原博樹「韓国、朝鮮問題、差別撤廃運動と岡本さん」岡本俊朗追悼集刊行会編『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記─日本考古学の変革と実践的精神─』、岡本俊朗追悼集刊行会、1985年8月2日、179頁。
  2. 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、見晴台遺跡第10次発掘調査団、1972年12月1日、6頁。
  3. 犬塚康博「満洲国国立中央博物館とその教育活動」『名古屋市博物館研究紀要』第16巻、名古屋市博物館、1993年3月30日、11-50頁、同「再び満洲国の博物館に学ぶ-危機における博物館の運動論」『美術館教育研究』Vol.8、No.1、美術館教育研究会、1997年3月1日、3-12頁、など。
  4. 小原博樹、前掲論文、179頁。
2013年9月8日

オリンピックに反対する

Posted by fische in Activity, History

1981年頃を想い起こしていた。

瑞穂運動場で国際大会すなわちオリンピックの競技をおこなうためには、何メートルか足りないということで改築となった。まだ五輪開催が決まっていないのに。運動場は国指定史跡の大曲輪遺跡に立地していたため、発掘調査がおこなわれた。面積は広大で、体制の充分でない名古屋市の埋蔵文化財行政はアップアップだった。

名古屋市役所の労働組合は「簡素で民主的なオリンピック」を謳っていたが、埋蔵文化財行政の現状を考えればとんでもないことであった。岡本俊朗と山田鉱一は「市職労はオリンピック反対の先頭に立て!(1)」を労働組合の機関紙に寄せ、組合の態度を問うた。

この年の春におこなわれた名古屋市長選挙では、オール与党でオリンピック招致を進める革新市長・本山政雄に、ノーオリンピックを掲げて竹内義次が対抗した。ある夕、組合の会議を終えた岡本と私は、久屋公園で竹内が集会を開いているところに遭遇。岡本からのカンパを、私は竹内に手渡した。

閑話休題。発掘調査では、縄文時代前期の屈葬人骨が完全なかたちで検出されて話題になった。人骨は土ごと取り上げられて名古屋市博物館の常設展示に置かれ、瑞穂運動場には模造人骨の施設が作られた。実物から型どりした複製ではなく、模したものである。製作は業者がおこない、インド人の骨を購入して古色を着けて設えたと当時聞いた。これが事実で、その後その模造が別のものに変えられていなければ人権問題に抵触するだろう。そうでなくても、その人権感覚は疑われる。分析すればわかること。オリンピックの置きみやげである。

戦争にしろオリンピックにしろ、巨大プロジェクトは暴力的である。

  1. 岡本俊朗・山田鉱一「市職労はオリンピック反対の先頭に立て!」『日刊あした』No.1455、名古屋市職員労働組合教育委員会事務局支部、1981年9月14日、1-2頁。
2013年9月7日

土器を叩き割る

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ある夏の見晴台遺跡発掘調査でのできごと。調査も終盤を迎え、残してあった土層観察用畔を撤去することになった。それまでの慎重な発掘から一転して、鍬で掘り崩してゆく作業である。土層中に遺構面があれば注意して検出、確認するが、ここは台地上の遺跡。堆積した土は薄く遺構面も不明なため、いきおい最終遺構面を検出して写真撮影に備えることになる。土層中の遺物に注意して。

このとき小原博樹が土器を叩き割った。「そのような掘り崩し方をしていたら、遺物を壊してしまう」という丹羽博の心配どおりに、小原は土器をまっぷたつに叩き割ってしまったのである。土器をあやめたことに対して、丹羽はむくれていた。小さな破片ではなく、ある程度かたちのある土器だったからであろう。土器に執着する丹羽は、余計に怒っているようだった。小原は、開き直って平然としていた。得意気にすら見えた。高校生と中学校教員という立場ではなく、遺物至上派と考古学批判派との対峙、とでもいうべき闘争をそこに見た。小原は闘っていたのである。

大学時代に考古学を通じて朝鮮語をかじった。それが縁で、運動として参加した見晴台で在日韓国、朝鮮人への差別撤廃の運動を紹介され、いまだに多くの差別があることを知った(1)

「僕は半分獅子に同感です」──私はほまったく小原に同感であった。10次(1972年)、11次(1973年)のいずれかはっきりしないが、「あのあたりのあの方向の畔」という私のぼんやりとした記憶と発掘区の図面から推して、11次のことだったように思う。

岡本俊朗の「こわれたら、くっつければいい(2)」は美談だった。「土器を叩き割る」はそうでないかもしれない。ならば、あえてテロリズムと言おう。土器を叩き割った小原だが、不登校や失踪した生徒によくつきあっていたようだし、在日朝鮮人生徒の教育を考える懇談会も1980年3月発足以降長く続けていた。そういう社会の問題を隠蔽している象徴として、土器すなわち土器を愛でる考古学を感じとっていたのだと私は解する。ゆえに叩き割った。別のことがらを混同しているとして詰ることは容易い。子どもじみていると優等生的に言うことも簡単である。私はアポリアを見る(3)

丹羽博は、高校生のときから地元の学会誌に踏査報告を投稿する考古少年で、考古学を専攻すべく別府の大学に進んだが、若くして亡くなったと聞く。

小原博樹は、去年のきょう、亡くなった。

  1. 小原博樹「韓国、朝鮮問題、差別撤廃運動と岡本さん」岡本俊朗追悼集刊行会編『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記─日本考古学の変革と実践的精神─』、岡本俊朗追悼集刊行会、1985年8月2日、179頁。下線は引用者による。
  2. 片山千鶴子「「こわれたら、くっつければいい」」岡本俊朗追悼集刊行会編、前掲書、229-231頁。
  3. 福岡猛志「「土器をこわす」ということ─岡本さんの想い出─」岡本俊朗追悼集刊行会編、前掲書、257-259頁。
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