2013年8月

2013年8月31日

考古学と社会教育と

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▲ 『中日新聞』、1970年3月19日。


▲ 『朝日新聞』、市内版、1971年8月4日。

婦人学級から自主グループが誕生して、講義や体験学習を継続するとは、なんと理想的、模範的な社会教育実践であることか。

考古学と社会教育──。たとえば「考古学と社会教育はいかにあるべきか」という問いを立てることも思いつかないほどに、いまでは自明の両者である。社会教育法-博物館法上の学芸員を流用、濫用して、埋蔵文化財担当職員に充当してきた世俗的事情もあるに違いない。もちろん、そうでない自治体、企業があることは百も承知である。

ところで、名古屋市において、考古学と社会教育の共存が明示的になったのはいつ頃からだろうか。見晴台遺跡発掘調査で概観すると、第9次以前の報告書に「社会教育」の語はなく(1)、第10次のそれから登場する。

見晴台遺跡の調査を、一方では科学的な調査研究の場としていくとともに、他方では多くの市民に支えられた文化活動・社会教育の場としていくことが強く意図されていたからである(2)

これは、名古屋市見晴台考古資料館じしんも引用しており(3)、記念碑的な一文である。これが発掘調査について説くのに対し、次は見晴台遺跡総体に言い及んでいる。

さいわい、見晴台遺跡は史跡公園として保存することが決定され、資料館の建設も予定されて、市民の社会教育と歴史教育の場として活用する方針が明らかにされている(4)

考古学と社会教育の語の存否は、奇しくも発掘調査団団長が吉田富夫の時代(第1~9次)とその後とに分かれるかたちとなった。当の吉田も、史跡公園論や博物館論を披露しながら、そこに「社会教育」の語はなかった。吉田に限らず、考古学関係者の術語に普及していなかったと言ってよいだろう。学芸員有資格者を採用するシステムが登場し、資格を取得することを目的とした個人、世代が登場して、はじめて意識されるようになってゆく。1951年に博物館法が制定され、学芸員の制度が誕生してようやく20年が過ぎる頃のことであった。

そして「社会教育」の語は、従来の考古学関係者には、役人用語ととらえられることも往々にしてあった。さらにこの傾向は、学芸員として行政に内在した考古学研究者にも、こののち散見することになってゆく。これは、ひろく博物館一般に見られる、「研究」と「教育」の対立に通じる問題群、その一端と言うことができるが、別の機会に考えてみたい。

それはさて措き、吉田富夫と蓬左グループ。考古学と社会教育が、たがいをよく知ることがなくても、おおきな物語─たとえば国民国家のような幻想─のもと無自覚にあったからこそ築きえた理想的、模範的関係。とりあえず、そのように記憶しておこう。

  1. 名古屋市教育委員会編『見晴台遺跡第I・II・III次発掘調査概報』、名古屋市教育委員会、1966年3月25日、1-72頁、同編『見晴台遺跡第IV・V次発掘調査概報』、名古屋市教育委員会、1968年3月31日、1-58頁、『名古屋市南区見晴台遺跡第IX次発掘調査の記録』、見晴台遺跡発掘調査団、1971年10月1日、1-13頁。
  2. 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、見晴台遺跡第10次発掘調査団、1972年12月1日、1頁。
  3. 『─第20次記念─見晴台遺跡発掘調査のあゆみ』、名古屋市見晴台考古資料館、1981年7月20日、28頁。
  4. 『見晴台遺跡第10次発掘調査の記録』、15頁。
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2013年8月24日

吉田富夫の史跡公園論

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検見塚に関する吉田富夫の希望すなわち保存活用論は、検見塚限りのものではなかった。

同じ時に吉田は、公園整備を間近に控えた見晴台遺跡(南区)を主題に、名古屋市の史跡公園について書いていた。

(略)上述のいろいろな遺構(住居跡、濠状遺構、貝塚のほか、当時トピカルだった焼失住居跡、縄文晩期貯蔵穴など──引用者注)がそのまま展示されたり、復元家屋が建てられたりすることになるのも、もうそんなに遠い日のことではあるまい。そして完成の暁には、果実や花粉の調査で知られるはずの林相をそなえ、発見された獣骨等に基づいて、シカ・イノシシなどを飼い、当時の自然環境をもできる限り復元し、できれば夏季などのキャンプに復元家屋を貸して弥生時代の生活を実際に送らせてみてはどうかなどと、夢は果しなくひろがっていく(1)

史跡公園のイメージはオーソドクスである。吉田は、1966年8月に登呂遺跡と蜆塚遺跡を見学しており、これらの成果も勘案した当時の平均的水準だったと想像する。ちなみに、吉田の挙げた項目のうち現在までに実現されているのは、遺構展示、復元住居、林相の復元である。

これに続けて、史跡公園の博物館施設についても、吉田は言い及ぶ。

ここから出土した遺物は、もちろん小博物館に展示され、復元図・想像図などを豊富にまじえて、理解を容易にさせる。学習室もあって、いつも一学級ずつ引率されて来た社会科の実習クラスが、スライド等による学習のほか、粘土を使って土器を作つてみたり、破片から実測図を書く方法を教わったりしたら、どんなに楽しいことであろう。一日も早く完成するのを期待しようではないか(2)

学校教育の延長のイメージとともに、専門教育でおこなわれる考古学実習の要素も見られて、考古学プロパーの博物館像となっている。

こうした見晴台遺跡でのプラクティスを導き手としながら、鉾ノ木貝塚(緑区)、小幡長塚古墳(守山区)、瓢箪山古墳(同)、白鳥塚古墳(同)、白鳥第1号墳(同)、東谷第16号墳(同)を挙げて、名古屋市における史跡公園継続の可能性を説き、さらに古窯跡の保存にも言及するのであった。

ところで吉田富夫の史跡公園論は、同じく見晴台遺跡の公園化に関して各論を列記した「保存に関する意見」が、1966年に披露されている(3)。これを発展的に継承したのが、上記の所論とみなせる。ちなみに、このときは「史跡公園」の名称を用いていないが、2年後の1968年になると「史跡公園」の語が登場する(4)。これは、行政における公園計画の性格変更に拠っていた。

閑話休題。吉田の史跡公園論は、長らくそれのみが単独でおこなわれてきたが、ここではそうでなくなっている。

そこで工事計画を曲げても永久保存を要する場合と、計画通りに工事の実施はするが、事前に発掘調査を行なって記録保存にとどめる場合とができて来る。前者の場合には史跡公園設置という考え方が、後者の場合には博物館という施設の必要が浮かび上がって来る(5)

史跡公園論は、博物館論とともに構造化されていることがわかる。博物館論は別に見る予定だが、総じて、開発と保存を前にした埋蔵文化財処遇のリアリズムであり、そのなかでも史跡公園は、より原理主義的位置を占めていたと言える。

しかし検見塚は、「工事計画を曲げても永久保存を要する場合」に相当しながら、愛知県指定史跡でありながら、史跡公園とはならないことが予想された。検見塚の不具を吉田が危惧していたことは、先に見たとおりである。吉田のリアリズムを否定する現実が、将来されようとしていたのであり、現にそうなるのであった。

  1. 吉田富夫「埋蔵文化財のはなし─歴史のなぞとその解明─」名古屋市教育委員会事務局総務部調査企画課編『教育だより』昭和45年1月号、名古屋市教育委員会、1970年1月16日、8頁。
  2. 同論文、8頁。
  3. 同「結語」名古屋市教育委員会編『見晴台遺跡第I・II・III次発掘調査概報』、名古屋市教育委員会、1966年3月25日、53-54頁。
  4. 同「付言」名古屋市教育委員会編『見晴台遺跡第IV・V次発掘調査概報』、名古屋市教育委員会、1968年3月31日、34頁。
  5. 同「埋蔵文化財のはなし─歴史のなぞとその解明─」、7頁。
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2013年8月17日

失望の検見塚、希望の検見塚

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検見塚がいまのような姿になることは、1969年にはわかっていた。

昭和44年、環状2号線計画道路が検見塚周辺を走ることが判明したため、貝塚周辺地域の試掘調査を愛知県教育委員会が調査主体となり実施した。検見塚周辺には都市高速道路のためのインターチェンジが設けられその中での検見塚周辺地域遺物稠密部分の保存が確定的となったが(1)、(略)

同様のことは、1971年3月、朝日遺跡群保存会の要望書に対する回答でもおこなわれていた。

検見塚周辺については環状2号線計画にともない減失する部分については記録保存をはかり、検見塚は環状2号線インターチエンジ内で保存整備するよう、建設省および町当局と協議を進めている(2)

あくまで保存と言い張るのである。木で鼻をくくったその物言いは、人々を失望させた。

さらには検見塚地区のシンボルともいえる県史跡の検見塚貝塚は残すとはいうものの、インターチエンジというコンクリートで挟まれた隔絶した別天地に仕立てあげようとしている。文化財保護に最も力を入れてしかるべき監督機関がかような態度を既に公表してしまっている事は、私たちを始め研究者、一般識者を落胆させてしまった(3)

失望の検見塚。人々は去り、別の人々が集り、今日の検見塚ができあがった。

ところで、1969年12月と1971年1月にかけておこなわれた前記「貝塚周辺地域の試掘調査」すなわち朝日貝塚予備調査の、調査主任をつとめた吉田富夫は、調査報告で次のように書いていた。

インターチェンジは平面交叉をするよう設計されてはいるが、さしあたり菱形の外縁に連絡道路が開かれるにとどまるというから、菱形に囲まれる全地域が道路面およびその他の何等かの施設に蔽われるわけではなく、県指定史跡である検見塚およびその周辺も、当然原状を変更することなく保存されるはずである。しかしできることなら、検見塚も孤立させてただ車中より望見させる程度にとどめず、四囲の道路を潜るなりして検見塚に近づき、あるいは登れるようにするとか、貝層断面なども地下水の排水を考慮しつつ見られるように工作したいものである(4)

検見塚のゆくすえを、吉田も愛知県から聞かされていたのであろう。しかし、県のように「保存」を言うことはない。「保存されるはずである」という確信のかたちで道理を説くのは、そうはならずに無理が罷り通ってゆく危惧を吉田が抱いていたからに違いない。希望を列記するのもそれ故のことなのである。

繰りかえそう。

しかしできることなら、検見塚も孤立させてただ車中より望見させる程度にとどめず、四囲の道路を潜るなりして検見塚に近づき、あるいは登れるようにするとか、貝層断面なども地下水の排水を考慮しつつ見られるように工作したいものである(5)

「孤立させて」いるではないか。「ただ車中より望見させる程度にとどめ」ているではないか。「四囲の道路を潜る」は果たされている。がしかし、「検見塚に近づ」けなければ画餅である。当然「登れ」などしない。蜆塚遺跡の貝層断面観察施設(1960年)を念頭に置いたかのごとき当時としては先進の「貝層断面なども地下水の排水を考慮しつつ見られるよう」な「工作」もない。どれひとつ実現されていないではないか。吉田の心配していたとおりの検見塚である。

吉田の希望はドラスチックなものではない。吉田のキャリアと良心の賜である。そうした考古学的、教育的配慮すらも許さない状況は、ひとこと暴力である。

希望の検見塚、ただひとつ、初発における──。

朝日貝塚予備調査 1969年12月または1970年1月
▲朝日貝塚予備調査 1969年12月または1970年1月

朝日貝塚予備調査 1969年12月または1970年1月
▲朝日貝塚予備調査 1969年12月または1970年1月

朝日貝塚予備調査 第5地点 1969年12月または1970年1月
▲朝日貝塚予備調査 第5地点 1969年12月または1970年1月

朝日貝塚予備調査 第45地点 1970年1月
▲朝日貝塚予備調査 第45地点 1970年1月

  1. 柴垣勇夫「調査の経過」(奥付なし)(『貝殻山貝塚調査報告』、愛知県教育委員会、1972年)、1頁。
  2. 飯尾恭之『朝日遺跡群の土器』、朝日遺跡群保存会、1971年9月18日、2頁。
  3. 同書、3頁。
  4. 吉田富夫「結言」愛知県教育委員会編『朝日貝塚予備調査報告』、愛知県教育委員会、1970年3月、15頁。
  5. 同論文、15頁。
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2013年8月10日

「プロレタリア考古」発刊40年を記念する

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10・25、岡本俊朗と続いたので、この話題。
10・25から3年半後の発刊。その意味は何だったのか。おそらくそういうことだったのだろうと思い返しつつ。

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2013年8月2日

岡本俊朗

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その人、岡本俊朗が逝って30年。

写真は、岡本俊朗追悼集刊行会編『岡本俊朗遺稿追悼集 見晴台のおっちゃん奮闘記-日本考古学の変革と実践的精神-』、岡本俊朗追悼集刊行会、1985年8月2日、1-588頁、が刊行されたときの新聞報道。

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▲毎日新聞 1980年8月3日以前


▲中部讀賣新聞 1985年8月3日(土)市内版


▲朝日新聞 1985年8月12日(月)夕刊


▲中日新聞 1985年8月26日(月)県内版

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